私は精神障がい者である。

精神障がい者というのは、普通に考えるなら自分にとって都合の悪い不利な事を考えたり口にしてしまう人の事のように思える。しかし、これは間違いである。精神障がい者というのはもっと違った人たちである。何かもっと別の人間、簡単には理解されない人たちである。

これは甚だ不遜な言い方の様に思われるが、例えば幻聴というものを考えてみる。幻聴というのは、声が聞こえてくる訳だが、声という以上一瞬にして感知するものではなく聞き取るのにある長さの時間を要すると考えられる。モーツァルトが曲の構想の全体が瞬時に頭にひらめいたなどという特異な場合でない限り、幻聴は時間の経過とともに生じるものと考えられる。それなら病気が良くなったとは、何を意味するのか。

幻聴が聞こえなくなった、或いは幻聴とうまく付き合えるようになったという人は、言ってみれば時間の使い方が上手になったという事だろう。それなら幻聴という症状があるとかないとか考えるよりは、「病気を治すには時間がかかりました」とだけ言っておけば、それで済むことである。

私の言わんとするところは、幻聴に限らず精神に障がいを持つ人には分かってもらえると思う。


2年前の記事であるが、相変わらず「精神不安」という言葉を使っている。私は格別他人の精神を不安にする様な言動をとる人間ではないし、そんな事は自分でも分かっていた筈である。なのにどうして、自分が自分のブログの読者を不安にしないかなどと考えたのだろう。そして自分の様な人間は他人を不安にする様なブログを書く以前にもう一度精神病院に入れられるだろうとも書いている。それで今の自分はどうなっているかと言うと、再入院はしていないものの、薬漬けの鬱々とした精神状態で、言い様のない無気力な生活をしているのである。他人を不安にするどころか自分が不安に押しつぶされそうなのが今の現状である。それ故当面は、自分のその様な精神のマイナス面をぼやいたりしない事が、私の「義務」であるかと思われる。

 


人は身体的弱者を、例えば体の不自由な人を庇うことなら心得ている。ところが精神的弱者を、つまり例えば誇大妄想の所持者などに対してはどうであるか?己れは何事をも正しく理解していると自惚れている人や、自分は何でもできる才能の持ち主であると思い込んでいる人は、決してそれが生きて行く上で有利には働かないのであるから立派な社会的弱者である。ところは世人はこういう人を決して庇護しない。しないどころではない、まるで人類の敵であるかのごとくに目の敵にするのである。この事は彼らもまた狭隘で寛容さを持たないという精神的な不具者であることを意味している。つまり彼らもまた一種の精神的弱者なのである。ところが社会はこういったタイプの人間を精神病院に入れたり経済的に疲弊させたりしない。つまり、彼らはまったくの偶然から正常な人間であると見なされているだけなのである。(2015年9月の記事)