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ココロはかき卵

良いも悪いも思い切りてんこ盛りの東海岸の街で日々、ホームレスやmental illness、薬物依存症と向き合う日々の徒然。

17日は阪神・淡路大震災が起こった日でしたね。


もうその後に生まれて、あまり知らない人も多くなってるのかな。 


31年経ったのか、と朝日新聞のウエブサイトの特集記事を見てね。

地震発生から多数の写真や映像記録を交えて、緊迫の一日を時間ごとに追った記録でした。 


当時、私は大阪の住吉区の大きいけど、建付け悪そうなアパートビルに住んでました。 

大きな揺れで飛び起きたものの、そのまま固まってしもた。廊下に飛び出ても3階やったから、その方が安全という保証もなかったし。 


大揺れが去っても余震が頻繁に来て、怖かったです。テレビが大丈夫なんが分かって速攻つけて見た緊急ニュースに映し出された映像が信じられんかったです。


明るくなると共に分かった爆撃の後のような崩れた街に折れた高速道路。炎と黒煙があちこちから上がってるのはショックでした。 


震源と被害が甚大なのは神戸などの西の方と分かって、明石に住んでる弟一家の無事が心配になって電話したけど繋がらん。奈良の両親とは何とか繋がって、そちらは何も無いと確認出来たけど。 


その電話も通話が出来なくなって、駅付近にある公衆電話まで行ったんです。スマホなんて無い時代でしょ。 

駅まで行ったら、公衆電話には長蛇の列だったです。地下鉄もシャットダウン。その辺りの人同士で情報交換してました。 


後に弟一家は無事と分かってホッとしました。その後、弟一家は当分、奈良の両親宅に避難してました。 


大阪の震度は4との発表やったけど、もっと大きく感じたです。建付け悪いアパートビルのせいもあると思います。 

大阪も被害が出たけど、日常生活やビジネスは結構直ぐに再開したです。 


震災直後はおにぎりやサンドイッチ、飲料類といった類のものはコンビニとかから消えました。流通が遮断されたせいもあるけど、それらは被災地に優先的に送られたせいもあります。 


大小の余震は続き、皆、仕事後は急ぎ家に向かう人が多かったです。何かあった時には家族と居たい、という心情やったから。 


当時は広告作成会社に務めててね。営業会社の敏腕営業員のおばさんが顧客の幼い息子さんが(おそらく)何かの下敷きになって顔を潰された状態で亡くなったので、お見舞いに寄ってきたんよ、って言ってました。 


ウチの会社の社員一人が被災地で無事ではあったけど、避難所に身を寄せる状態になってね。 

男性社員2人がバックパックに支援品を詰めて、様子を見に行ったんです。道路も何も通れる状況じゃなかったんで、他の大勢の人達がしたように、線路を歩いて神戸入りしたんです。 

人の焼ける匂いがしていた、と辛い話を聞きました。 


神戸は大好きな街でした。 


ゴタゴタとエネルギーが炸裂してる大阪とは違い、ちょっと異国情緒もあって、大阪よりずっとゆったり散策できる、でもグルメも買い物も楽しめる独特の空気の街。港に行くのも好きだった。 


震災後、6ヶ月くらいしてから通った空襲の後のような焼け落ちた火災の酷かった地域の街並みや崩れた港を目にして辛かったです。 


多くの人が家族を失って多くの涙が流れて、もう31年。東日本大震災が2011年に起こり、能登の地震が昨年。 


さらに多くの涙が流れて。。。 


地震予知が出来たら、、、と本当に思います。


合掌



朝日新聞のウェブサイトの阪神・淡路大震災の記事よりお借りしました。