私的回顧「裁判員裁判10年」① | 空気を読まずに生きる

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弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

来年の5月17日に裁判員裁判が始まって10年。

裁判員裁判が始まる前と今とで刑事裁判が大きく変わったことは誰の目にも明らか。

では、裁判員裁判が始まった頃と10年経った今とで裁判員裁判は変わったのか、変わっていないのか。

 

私は変わった気がしている。

10年前の方が裁判官が自由だった気がする。

今は裁判所がいろんなものに縛られていて、みんなが同じ方向を向かされている気がしてならない。

 

さて、興味深いことに私は今年になって控訴審で原審裁判員裁判の判決が破棄されたケースを3件経験している。

 

①逮捕監禁、強盗致死、死体遺棄等被告事件

第一審の裁判員裁判(東京地判平成28年9月23日)は無期懲役

控訴審(東京高判平成30年4月18日)は原判決破棄、懲役28年

 

②危険運転致死被告事件

第一審の裁判員裁判(横浜地小田原支判平成29年6月21日)は懲役5年6月

控訴審(東京高判平成30年8月2日)は原判決破棄、差戻し

 

③傷害致死被告事件

第一審の裁判員裁判(さいたま地判平成29年12月15日)は懲役3年6月

控訴審(東京高判平成30年9月28日)は原判決破棄、無罪

 

ここでのテーマは「なぜ第一審で控訴審のような判断がなされなかったか」である。

①事件、②事件は私は第一審の裁判員裁判の弁護人でもあった。

③事件含めて、控訴審での新たな事実調べの結果があってはじめて原判決破棄になった事例はない。

どの事件も第一審で控訴審がしたような判断はできていたケースだと感じている。

 

だとすると考えられるのは

a)第一審での裁判員裁判の弁護技術が未熟、不十分だった

b)裁判官裁判ではなく裁判員裁判であることの問題

C)裁判長の問題

 

といったところが考えられる。

 

このうちa)の要素は多かれ少なかれあると思う。

①、②、③のどの事件も弁護人の主張は第一審と控訴審でほとんど変わっていない。

つまり、裁判員に対して弁護人の主張を十分に伝え、説得することができなかった。

ここはやはり弁護技術をさらに磨かねばならない。

控訴審での判断を第一審で得られなかったことには裁判員裁判に積極的に取り組む弁護士として忸怩たる思いがある。

 

一方で、これが裁判員裁判だから第一審では負けたのか、控訴審は裁判官だけの裁判だから勝ったのかと言われると、どうもそれは違う気がする(認めたくないだけなのかもしれないが)。

もし第一審が陪審裁判のように市民だけの裁判だとしたら、これまた結果は違ったのではないかという気もする。(これは検証不能であり、やはり裁判員の守秘義務はおかしい)

 

要は何が言いたいか。

私は裁判員の評議における裁判官(特に裁判長)のウェイトが以前に比べて増しているのではないかという想像している。

 

裁判員が求刑10年の傷害致死事件で懲役15年の判決を下した事件における上告審で、最高裁(最判平成26年7月24日刑集68巻6号925頁)は

裁判員裁判といえども,他の裁判の結果との公平性が保持された適正なものでなければならないことはいうまでもなく,評議に当たっては,これまでのおおまかな量刑の傾向を裁判体の共通認識とした上で,これを出発点として当該事案にふさわしい評議を深めていくことが求められているというべき」という判断を示したが、この判決における白木勇裁判官(刑事裁判官出身の最高裁判事)の補足意見の中に次のようなくだりがある。

「裁判員裁判を担当する裁判官としては・・・評議に臨んでは,個別の事案に即して判断に必要な事項を裁判員にていねいに説明し,その理解を得て量刑評議を進めていく必要がある。」

「量刑判断の客観的な合理性を確保するため,裁判官としては,評議において,当該事案の法定刑をベースにした上,参考となるおおまかな量刑の傾向を紹介し,裁判体全員の共通の認識とした上で評議を進めるべきであり,併せて,裁判員に対し,同種事案においてどのような要素を考慮して量刑判断が行われてきたか,あるいは,そうした量刑の傾向がなぜ,どのような意味で出発点となるべきなのかといった事情を適切に説明する必要がある。」

私はこの最高裁判決が、裁判員裁判10年のターニングポイントだったのではないかと感じている。

この最高裁判決が出されたのは裁判員裁判が始まってからちょうど5年。

この最高裁判決を機に、「裁判長が裁判員に刑事裁判のやり方を教える、説明する」という関係性が強くなったのではないかという気がしている。

そしてそれに呼応するように、第一審の裁判員裁判を担当する裁判長の個性が弱くなり、最高裁の意向に沿う裁判長が増えた気がしてならない。

私は裁判員裁判が今後成功するかどうかは、裁判官自身が”裁判員の判断に委ねる”ということを貫徹できるかどうかにかかっているのではないかという気がしている。

私は今すぐに日本で陪審制が実現できるかというと、やや懐疑的なところがある。それはこれまであまりに法教育がなされておらず、市民だけの裁判が正しく行えるためにはもう少し時間がかかるような気がしている。

しかしその中で、「裁判官が裁判員に教える」という関係性が今後より強くなるならば、この裁判員制度は崩壊すると思う。そして今、その危機にあるような気がしている。

裁判員裁判創生期に地裁の裁判長を務めていた人たちはこぞって現在高裁の裁判長をしている。

今年に入ってからの3件の破棄判決はいずれもかつて裁判員裁判の裁判長をしていた人たちが裁判長の事件だった。

なんとなく当時の裁判長の方が、”開き直っていた”感じがする。

その原因として、上記の最高裁判決の影響があるのではないだろうか。

 

今年に入って経験した3件の原審裁判員裁判の破棄判決、これを単に「裁判員裁判よりも裁判官裁判の方が正しい」と評価するのは浅慮に過ぎるのではないだろうか。