袴田事件再審開始取消決定を読む | 空気を読まずに生きる

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弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

私は日々刑事弁護活動に精を出している。
私も死刑再審事件の弁護活動もしている。
そんな立場だから、死刑事件で再審開始決定が出て依頼人が釈放された後に、再審開始決定が取り消されるという事態について、ご本人や弁護団、支援者の人たちの心情を察すると言葉が出ない。

しかし一法律家としてやるべきことは、この衝撃的な再審開始取消決定について、その決定文を法律家として法的に解釈、論評することだと思う。
世間では、弁護士も含めてこの再審開始取消決定について情緒的、感情的な議論ばかりだが、私はそれはよくないと思う。
少なくともこの決定は感情論で片付けられるようなものではない。

この再審請求即時抗告審では、再審開始決定の根拠となったいわゆる「本田鑑定」の扱いが最大のテーマとなったようだ。
本田鑑定で用いられた「細胞選択的抽出法」というDNAの抽出方法について、今回の東京高裁決定は次のように判断している。

「細胞選択的抽出法は、本田が考案した新規の手法である上、本田以外の者が、同手法によって陳旧血痕から血球細胞とその他の細胞とを分離した上、血液由来のDNA型鑑定に成功した例も報告されていないのであって、この種の抽出方法として、一般的に確立した科学的手法とは認められない。一般に、自然科学の分野では、実験結果等から一定の仮説が立てられると、他人にその仮説の正当性を理解してもらうために、その理論的根拠や実験の手法等を明らかにし、多くの者がその理論的正当性を審査し、同様の手法によりその仮説に基づいたとおりの結果が得られるか否かを確認する機会を付与して、多くの批判的な審査や実験的な検証にさらすことによって、その仮説が信頼性や正当性を獲得し、科学的な原理・手法として確立していくのである。したがって、一般的には、未だ科学的な原理・知見として認知されておらず、その手法が科学的に確立したものとはいえない新規の手法を鑑定で用いることは、その結果に十分な信頼性をおくことはできないので相当とはいえず、やむを得ずにこれを用いた場合には、事情によっては直ちに不適切とはいえないとしても、科学的な証拠として高い証明力を認めることには相当に慎重でなければならないというべき」

私はこれは極めて重要な判断だと思う。
現代の刑事弁護人の1人として、科学的証拠の許容性(どのような科学的証拠であれば刑事裁判における証拠として用いることが許容されるか)は最も重要なテーマの1つだと思っている。
私たちは「科学」と言われると、それを無条件に信頼してしまう危険がある。そして、「科学」の名を借りたエセ科学もたくさんはびこっている。
この点について日本の最高裁はこれまで確たる判断を示していない。

足利事件上告審決定(=菅家氏を誤って有罪判決にした冤罪決定)では、後に否定されるMCT118法というDNA型鑑定について、「その科学的原理が理論的正確性を有し、具体的な実施の方法も、その技術を習得した者により、科学的に信頼される方法で行われたと認められる」として証拠能力を認めた。
しかしこれはいかなる科学的証拠が許容されるかについて、「科学的原理が理論的正確性を有し」ということを述べるのみで、確たる基準が示されたとは言えない(現にこの決定は、MCT118法について誤った判断をしている)。

その中で、今回の東京高裁決定は、
その科学的手法が「一般的に確立した科学的手法」と言えるのかどうか、
その判断基準として他人にその仮説の正当性を理解してもらうための審査を経たかどうか等といったことを述べた。

これは、アメリカ連邦最高裁における、いわゆるフライ判決(Frye v. United States, 293 F. 1013, 1014 (1926))(=その科学的理論が「一般的承認」を得ていることを基準とする判決)、その後のドーバート判決(Daubert v. Merrell Dow Pharmaceuticals, Inc. 509 U.S. 579 (1993))(=専門家による科学的証言は、事実認定者を手助けする科学知識である必要があるが、その鍵は「その理論や技術がテストされたか」、あるいは「その理論や技術がピア・レビューされあるいは出版されているか」だとする判決)を意識したものだと思われる。

(ドーバート判決については、高野隆ブログ「刑事裁判を考える」のこのページに全文訳がある)

その証拠が刑事裁判の事実認定を手助けする科学知識と言えるのかどうかという視点で、その科学知識が他人の審査を経たかどうか等の基準を示した今回の判決、このような判決は日本ではじめてではなかろうか。

そういう意味で、私はこの袴田再審開始取消決定は、今後何度も何度も私たち弁護人が引用する裁判例になるのではないかと思う。
私たちは検察官が(たまに?ちょくちょく?)出してくる科学と呼べるかどうか極めて怪しい「専門家意見」について、今回の東京高裁決定を盾にして防御するだろう。

そんなわけで、私は今回の決定は法的に重要で、かつ正しいことを述べていると感じる。
このような見解にもちろん異論などあるだろう。
しかし、科学的証拠の許容性について日本ではじめてとも言える極めて重要な判断を示している決定を、その決定の中身を分析することなく、「裁判官は圧力に屈した」だとか単純な死刑存置論に結びつけた評価だとか、大島隆明裁判長の人柄から安直な解釈をするようなことは、法律家の議論ではないと私は思う。

では、この再審の手続には何の問題はないか?
そこはそうは思わない。
問題は2つ。
1つは再審開始のハードルが高すぎるのではないかということ。
もう1つはこの再審開始の手続がすべて非公開の手続で行われていること。

これらの問題もまた深刻な問題だが、またいつか気が向いたときに。