裁判員裁判:遺体写真など…衝撃的な証拠、排除広がる(毎日新聞 2014年10月27日)
法廷で遺体の写真を見た裁判員がPTSDになり国家賠償請求をした事件を機に、裁判員に対して遺体の写真を見せるべきかという議論が盛んになっている。
この問題、いささか誤った方向に議論が進んでいる気がしてならないので、「正しい」考え方を示しておきたい。
リンクの記事にもあるように、検察官の中には裁判員に凄惨な写真を見てもらうことを目的として、遺体の写真を証拠請求する人がいる。要は、凄惨な写真を見て、事件の残酷さを感じてもらって、被告人を重く処罰してもらおうということだ。
このような検察官の考えに対応する形で、最近裁判所が検察官に対して「遺体の写真はやめろ、イラストにしろ、ショックを和らげろ」と強く指導することをとても好ましいことだとする弁護士が少なくない。
しかし、このような考え方は全くもって間違っていると思う。
問題はそういうことではない。
この問題、私なりに3つのポイントから考えたい。
ポイント1:遺体写真を証拠として採用すべきかどうか
遺体写真を証拠として採用すべきかどうかは、「証拠の関連性」の問題だ。
関連性の中でも「法律的関連性」と呼ばれる問題。
簡単に言えば、その証拠が持つ証拠価値と、その証拠が事実認定者に与える弊害とを比較してどちらが優先するかという問題だ。
福島で起こされた国賠訴訟の件を見ても明らかになったとおり、遺体写真は非常にインパクトが強く、人によってはPTSDを発症することもある。それほど強烈な証拠であり、当然裁判員の感情を刺激する。冷静な判断を阻害する危険もある。これらは遺体写真という証拠が持つ弊害である。
一方で、事件によっては遺体写真が持つ証拠として価値は極めて大きい場合もある。ここで重要なことは「事件によって」ということである。
事件によっては、遺体写真が証拠としてほとんど価値がない事件もあれば、決定的に重要な価値を持つこともあるということだ。
例えば、事実関係に全く争いがなく、被告人が被害者の心臓を5回包丁で突き刺したことに何の争いもない事件であれば、遺体写真は証拠としてほとんど価値がない。その事実はいくらでも他の方法で法廷に出すことができる。(例えば、解剖をした医者が法廷で証言をすれば十分である)。
一方、例えば、被告人の方から包丁を刺したのか、被害者が襲ってきたから被告人は何もしていないのに手に持っていた包丁が被害者の体に刺さってしまったのか、ということが問題になるような事件であれば、包丁がどのような角度でどこにどう刺さっていたのかは決定的に重要である。
このような事件では、例えば遺体写真には裁判員の感情を刺激し、PTSDを発症させるくらいショックが強かったとしても、それを上回る証拠価値がある以上、証拠として採用されなければならない。
これは検察官が遺体写真を証拠として請求する場合でも、弁護人が遺体写真を証拠として請求する場合でも全く変わらない。
被告人の無罪を明らかにするためには、遺体写真を証拠請求しなければならない事件なんていくらでもある。そのような事件では、例えその証拠には事件の凄惨さをリアルに伝え、裁判員の感情を刺激するデメリットがあったとしても、弁護人は遺体写真を証拠請求しなければならない。
このように、遺体写真を証拠として採用すべきかどうかは、事件ごとにケースバイケースとしか言いようがない。これを、「遺体写真を法廷に出さない=弁護人としては望ましい」というのは間違った議論である。
なお、ここで勘違いしてはいけないのは、検察官が言うような「事件の凄惨さを伝える」ことは裁判の目的ではないということだ。
刑事裁判は、起訴状に書かれた事実が証拠から間違いないと言えるかどうかを判断し、それに見合った刑罰を決める手続だ。
決して事件の凄惨さを伝える手続ではない。結局検察官がやろうとしていることは、裁判員の感情を刺激しようとしていることに他ならず、関連性のない立証をしようとしているに他ならない。
ポイント2:写真かイラストか
この記事にもあるように、裁判所は写真は衝撃を与えるからイラストにしてくれと検察官に強く指導している。
しかしこれは全く間違っている。
もし、遺体の写真を見なければ起訴状に書かれている事実を判断できないくらい、遺体写真の証拠価値が高いのであれば、それは写真を見て判断しなければならない。
イラストで代替するということは許されない。なぜならば、一番正確な証拠は写真だからだ。
イラストというのはどんなにリアルにやっても二次証拠でしかない。正確性などについて、人の作為が加わっている。
刑事裁判というのは、被告人の生命、身体、財産を国家が強制的に奪う手続であり、まさに被告人の人生がかかっている。
このような刑事裁判の手続で、写真をもとに作成したイラストが証拠として用いられることはおかしい。
遺体の状況について証拠として採用しなければならない(=関連性がある)のであれば、写真を見るしかないし、証拠として採用することについて価値がなく、弊害が大きい(=関連性がない)のであれば、イラストだろうが法廷には不要だということである。
ポイント3:裁判員の選任はどうするか
とはいえ、遺体の写真を見せられて体調を崩す裁判員がいたという事実は大きい。
人によっては遺体の写真をどうしても見たくないという人もいるだろう。
一時期、裁判官によっては裁判員に対して「遺体写真については、見たくない人は見なくてもいいですよ」などと言っていたことがあったが、これはどこからどう見ても間違っている。
裁判員は、すべての証拠を見て判断する。これは基本中の基本である。人によって見た証拠と見ていない証拠があっていいなんてことはあっていいはずがない。
では、どうするか。
それは裁判員の選任手続の段階で、「遺体の写真はどうしても見たくない」という人を裁判員から外すというプロセスを経るしかないと思う。
どうしても証拠を見ませんというのは、公正に裁判ができないということだろう。
刑事裁判は殺人事件などを扱う以上、残酷な写真が出てくることは避けようがない。ある意味当たり前のことだ。残酷な写真を見てもらわなければならないのであれば、ちゃんと見てもらえる人に裁判員を務めてもらうしかない。これを残酷な写真を法廷に出さないようにするというのは解決方法として間違っている。われわれの仕事はそんな生半可なものじゃない。
たしかに、これまでの裁判では、証拠の関連性など何も意識せずに遺体写真や遺体の解剖の鑑定書が必ず証拠として出てきた。
裁判員裁判によって、その運用について一度立ち止まって考えることになった意義は非常に大きい。しかし、この問題、裁判所内部でも、検察庁内部でも、弁護士会内部でも、世間(新聞など)でもさまざま論じられているが、どうも議論が変な方向に行きがちである。
何が問題なのかをしっかり考えないととんでもないことになる危険がある。