「"公共の空間"での"口頭"による"一回性"の媒体」の意味 | 空気を読まずに生きる

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弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

裁判員裁判時代を迎え、刑事裁判が公判中心主義へと回帰したということがよく言われる。
しかし、いまやろうとしている裁判は本当に公判中心主義の裁判なのだろうか。

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公判中心主義というのは、「公判」という公共の空間=広場で紛争に決着をつけようという制度のことである。
密室でのやり取りで決められた結論は信頼できない、公の場所で当事者双方に正々堂々と攻防させるのがフェアである、そうした考え方が公判中心主義の基底にはある。
そして、この考え方を実現するためには、当事者の攻防が「陳述」「証言」「弁論」という、口頭による一回性の媒体をもって行われる必要がある。
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(じつはこの説明は、高野隆弁護士が私的なメーリングリストに流した独り言を引用したのだが、本人はこのようなことを述べたことも忘れているようだ。
なので、あたかも私自身の説明だと言ってもいいのだが、私のことを少しでも知っている人は、私がこんなに教養のある説明ができる人間ではないことはすぐにわかるので、きっちり引用だとしておこう。)

それはさておき、この説明はもともとは法廷における「書面の提出」を批判する文脈だった。
書面を提出するということは、口頭による一回性の媒体という公判中心主義の要素に反するというものである。

一方、裁判員裁判時代を迎えいま裁判所主導でやろうとしている公判中心主義は、調書裁判から脱却して証人尋問を中心とした裁判であり、この点では正しいだろう。
しかし、証人尋問を中心とした裁判を実現するために、公判前整理手続を行い、その中で検察弁護双方の主張を詳細に出させ、誰がどのような証言をするのかも裁判所含めて把握しようとし、実際の公判では、予定されたとおりの証人尋問を行う、これがいま裁判所が目指している公判中心主義の裁判である。
極力公判において予想外の事態が起きることを嫌い、そのような事態が生じないようにさまざまな穴を埋めようとする。

しかしこの発想は「一回性」という公判中心主義の一大要素に反するのではないだろうか。
「一回性」というのは、一回勝負ということである。
法廷での一回きりのやりとりがすべてということである。
何が起こるかわからない法廷での一回きりのやりとりがすべて、だからこそ全神経を法廷に集中し、法廷が緊張感に包まれ、まさに公判中心主義の裁判が実現するのではないか。

法廷というのは、何が起こるかわからないところである。
証人が何を言い出すかわからない。証人が突如としてこれまでと違うことを言い出すかもしれない。そうなったらさらなる証人尋問が必要になることもあろう。
一回性の媒体としての証人によって審理を行う以上、予定外、想定外の事態が起こることは不可避である。
そう考えると、双方の主張をガチガチに固め、審理予定をきっちりびっちり決め、決められたことを決められたとおり行うことを前提とした、いまの裁判は、決して本来あるべき公判中心主義の裁判とは言えない。

「一回性の媒体」としての証人尋問が続く裁判員裁判をやりながらこんなことを考えた。