無罪の人を無罪に | 空気を読まずに生きる

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弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/



幸か不幸か、何かの因果かどうかはわからないが、この3年間、自白事件よりも多くの否認事件の弁護活動をしてきた。
これらの否認事件(その多くは無罪を主張する事件)、弁護人である私はどの事件も無罪であると確信して弁護活動をしてきた。
よく、弁護士は有罪の人を無罪にする人だからけしからんなどという人もいるが、それは間違っている。弁護士は事実を曲げることなんてできない。あることをないとは言えないし、ないことをあるとも言えない。これまでの否認事件のいずれの事件も、私は依頼者と話す中で、さまざまな疑問を依頼者にぶつけ、その対話の中から、この人は無罪であると確信してきた。確信できるまで議論をしてきた。

しかし、裁判は証拠によって判断されるものなので、裁判の中に出てくる証拠を考えると、無罪判決は厳しいと思える事件はもちろんある。むしろ多くの事件はそうかもしれない。
逆に、裁判の中で出てきた証拠を見ても、絶対に無罪判決が出ると思える事件もあった。

今回の傷害致死事件、判決宣告を迎えるにあたって、私の内心は、「絶対に無罪判決が出る」と思っていた。
裁判に出てきた証拠を見て、絶対に無罪だと確信していた。私の乏しい経験の中では、このような事件は2件目だった。

ところが、1件目の事件は、判決は有罪判決だった。
私も刑事弁護人の端くれなのか、はたまた生まれ持った性格なのか、物事を懐疑的に見てしまうところがある。

1件目の無罪確信事件のとき、私は判決宣告を聞く時、頭の中で、
「絶対無罪だと思うけど、裁判官は有罪判決を下すんだろうなぁ」
と想像していた。
刑事裁判の判決の場合、最初の6文字で有罪判決か無罪判決かがわかる。
有罪判決の場合、「ヒコクニン『を』懲役●●年に処する」となり
無罪判決の場合、「ヒコクニン『は』無罪」となる。

1件目の無罪確信事件で判決を聞く時、私の頭の中は
「裁判官は、「ヒコクニン『を』」って言うんだろうなぁ」と想像しながら聞いた。
そして、予想通り、裁判官は「ヒコクニン『を』」と言った。

なので、無罪判決を確信した事件であったが、有罪判決をのべる裁判官の声を聞きながら「やっぱり」という気持ちになった。


さて、今回の傷害致死事件。
今回も私の頭の中は、1件目の事件と同じだった。
絶対無罪だと思っていたが、裁判官は「ヒコクニン『を』」と言うんだろうなぁと思っていた。
ところが、芦澤裁判長は、とてもあっさり、あまりにあっけなく「ヒコクニン『は』無罪」と言った。

無罪判決を確信していたにもかかわらず、私は無罪判決を聞きながら「やっぱり」とは思えなかった。
何とも言えないあっけにとられた気持ちになった。
そして、何よりも、依頼者の自由を守ることができたことに安堵の気持ちになった。

彼は絶対に無罪だった。
彼は絶対に国家に自由を奪われてはならなかった。
そして、彼は無罪になった。
彼は自由を奪われなかった。

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先日亡くなられた高野嘉雄弁護士は、「無実の人を無罪にするのは当たり前、真に犯罪を犯した人をどう弁護するかこそが、弁護人の腕の見せ所」とおっしゃられていた。(季刊刑事弁護68号73ページ)

私は高野嘉雄弁護士の言葉に何か言える立場では全くないが、それでも今回私は思った。
「無罪の人を無罪にする」弁護は絶対に重要であると。

私はもうすでにこの数年間で、何人もの無罪判決が下されるべき依頼者に、無罪判決を下させる弁護ができなかった。
今回は、もちろん高野隆弁護士の圧倒的な力もあり、無罪判決が下されるべき依頼者に無罪判決を下させる弁護ができた。

今後も「無罪判決が下されるべき人に無罪判決を」を目標にがんばろうと思った。
そして、それが実現できたとき、高野嘉雄弁護士の言葉にあるように「無実の人を無罪にするのは当たり前」という心境になるのかもしれない。