刑事弁護はプロボノか | 空気を読まずに生きる

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弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

弁護士業界の中ではプロボノ活動という言葉がある。
語源を調べてみると、ラテン語の"pro bono publico"という言葉からきているようで、その意味するところは、「公共善のために」ということのようだ。
要は、金儲けのためでなく、世のため公共のためにボランティア(あるいはボランティアに近いくらい収支を度外視にして)で活動することをプロボノ活動と言っている。
そして、少なくとも日本の弁護士業界の中では、刑事弁護はプロボノの代表戦士とされている。

果たして、刑事弁護はプロボノか。

私は、決して刑事弁護はプロボノ活動ではないと思う。
刑事弁護をプロボノだと言うことは、刑事弁護に対する侮蔑ではないかと思う。

まず、刑事弁護は世のためにやっているのではない。少なくとも私は。目の前にいる依頼者のためにやっている。その意味では、他の民事事件などと何も変わらない。ただ違うのは、相手が国家であり、依頼者がその国家から自由を奪われそうになっているというだけだと思う。
そして、刑事弁護をプロボノだということは、刑事弁護をやっている弁護士に対して、「あなたの活動はボランティアだ」と言っていることにもなる。これは、プロフェッショナルとして刑事弁護をやっている人に対して失礼極まりないことだと思う。
私が尊敬してやまない刑事弁護士達は、誰一人として、ボランティアの気持ちで刑事弁護などやっていないと思う。彼らは、その仕事に誇りを持って、それを職業として、自らの稼ぎの糧として、刑事弁護をやっている。その意味では、私の場合は、「お前がやっている刑事弁護はプロボノだ」と言われてしまえばそれまでなのだが。

そして、この刑事弁護をプロボノだ、刑事弁護活動は公益弁護活動だという風潮がどこから生まれるのかもう少し掘り下げてみると、刑事裁判の歴史を遡ることになるのではないかという気がしてきた。
日本では、戦前は刑事裁判はお白州方式で行われていた。裁判にかけられる被告人は裁判官の前で審判の対象でしかなく、裁判の当事者ではなかった。平たく言えば、裁判官様の判断の対象物でしかなかった。そういったスタイルの刑事裁判のもとでは、検察官も弁護人も被告人の処罰のために動くという性質があるから、その弁護活動も「公益的だ」と評価されていたのではないか。
しかし、戦後の裁判はそうではない。検察官と弁護人・被告人は対立当事者になっている。だとすれば、「公益の代表者」を自称する検察官の対立当事者である弁護人が「公益」のために動く存在であるはずがない。弁護人は、訴訟の当事者である被告人をサポートする存在であって、決して公益活動をしているわけではなくなる。

このように考えれば、刑事弁護はプロボノ活動だと言うことは、すごく時代遅れの発想なのではないかとも思える。
まぁそもそも刑事弁護は(多くの場合は)犯罪者の味方になって弁護活動をしているわけで、それは世のためではなく、その依頼者個人のためだということははっきりしているようにも思える。

とはいえ、多くの刑事弁護士は稼ぐことに汲々としているのも事実であって、ただ単に「お金にならない仕事」を「プロボノ」だと言われているのだとすれば、身も蓋もない話ではある。
刑事弁護を「プロボノ」だと呼ばせないためには、刑事弁護士は稼いでいないという、幻想のような現実(現実のような幻想?)を取っ払わなければならない。

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ということで、はやく記事を更新しろという話をあちこちからいただいたので、なんとか更新しました。
もう2月ですが、今年も小難しい話を小難しくしていこうと思います。
よろしくお願いします。