次に、死刑制度を廃止すべき理由を検討しよう。
死刑廃止論者の言い分に私なりに反応したい。
「野蛮だから。」
野蛮といえば野蛮だが、仕方がないではないか。
「残酷だから。」
死とは、社会から隔離または排除されるだけでなく、《世界》から排除されることである。寿命で死ぬのも同じく残酷だ。酷い殺され方で死んだ被害者に比べれば絞首刑で死ぬのはたいして残酷ではない。加害者は死ぬ残酷さだけを我慢すれば良いではないか。
「国家に人の命を奪う権利はない。」
国家による自衛権を否定するのだろうか。だとしたら、それについても説明し、国家が人を殺さなくても済む制度の代替案を提示するべきだ。他国民を殺すのは別、とは言わせない。ぜひ、国際社会に訴えてもらいたい。
「死刑制度の廃止は世界の潮流だ。」
EUや国連の勧めることが必ず正しいという保証があるのなら別だが、悪い場所へ流れ着く可能性を吟味せずに、世界の潮流とやらに乗るわけにはいかない。
「古代社会の野蛮な制度や風習が我々にとって受け入れ難いように、未来の全ての人類が死刑を極めて野蛮なものと考え、もし今死刑制度を廃止しなければ、我々は子孫たちに野蛮だと笑われかねないのだ。」
まず、古代人の野蛮を笑う者は全て忘恩の徒であるという事を言いたい。我々が古代人より遥かに洗練された道徳的振る舞いを身につけているとしたら、それは、政治制度が進歩したからである。人類が生物として倫理的に進化しているだろうか? 集団としてではなく、現代に生きる一人ひとりの個体が…この世に産み落とされた我々個々の人間が、古代の人間たちに比べて倫理的に進化した存在だと言えるだろうか? 古代人と同じく、我々は、邪な考えを持ったり、他人の悪口を言ったり、憎悪心を募らせたり、卑怯な真似をしたり、保身のために嘘をついたり、激しく怒り散らしたりする事があるのである。子供から大人になるまでの成長の過程を、自ら省みればよくわかるだろう。それでも、我々が基本的人権の尊重を当たり前のものとして考え、人種差別などもってのほかだと考えているのは、一体何故なのか? 考えてもらいたい。
人権という言葉、概念、あるいは発想すら無かった時代がある。無いのが当たり前だった時代があるのだ。時代が変化するという社会現象はどうやって生じるのか? よくよく考えてもらいたい。