極めて悪質な凶悪犯罪を目の当たりにしたとき、我々は大なり小なり感情的にならざるを得ない。感情で反応し、感情で反応し返す。これはある意味自然なことだが、もしも感情論に終始して議論を深めないのであれば、世界の潮流ということでいずれ我が国の死刑制度が廃止になるだろう。それは一世紀も後のことかも知れないし、ひょっとしたら二年後かもしれない。いずれにしろ、惰性で、だらしなくそうなるのだ。
ここで私に出来るささやかなことは、-個人の感情や感情論が悪いと言うのではない-、「感情論議」を終わらせることだ。
まずは、なぜ人を殺してはいけないのかを問うてみたい。なぜこの様な問いを問わねばならないのか。それは第一に、死刑という罰が罪人を殺す事であるからだが、これは廃止論者が答えるべき問いだろう。第二に、我が国の現行法で死刑になりうる罪は殺人だからである。殺人がなぜダメなのか。これは多くの人が、真面目に答えようとすればするほど哲学的問いに迷い込み、アポリアに陥る問いであり、遂には「絶対に殺してはいけない理由はないが、そんなことをせずに有意義な人生を送る努力をした方が遥かに良い」などと答えを避ける者もいる。
私の答えは、法が禁止するから、である。はっきり言って、これ以外の理由はない。
何を馬鹿な、と多くの人が思うだろう。法で禁止されているのはその裏にちゃんとした道義的な理由があるからなのだ、と言いたいだろう。しかし、殺人を何とも思わない人間にとっても人を殺してはいけない根拠となるのは、法なのだ。殺された者の近親者が悲しむからだ!というようなことを、鬼の首でも取ったかのように語る人もいるが、それは通常我々が人を殺さない、あるいは殺したいとは思わない理由のひとつであって、殺してはいけない理由ではない。それとも、悲しむ近親者を持たない人間ばかりを選んで殺した者は罪が半減するとでも言うのだろうか。
繰り返すが、人を殺してはならないのは、法が禁止するからである。ところで、法が殺人を禁止するに至る経緯は説明すべきだろう。
誰にでも生きる義務がある。これは法的義務ではないが、生命システムは「生きるべし」という当為を自身の内に孕んでいる。そして、その義務が公的に尊重される、つまり相互に承認されることで「生きること」は権利ともなり、それが生きる権利、生存権だ。生命は一方的に奪われることもあるが、生存が権利であるということは、それを侵す行為は当然に違法なのである。