斎名智子です。

アメブロが事務局さんのお知らせばっかりになっているので

久しぶりに自分でも記事を書くことにする。

 

いい記事を書こうと思うと途端に書けなくなるので

今日は独り言みたいなものを書いていこう。

 

よって、キラキラしていない。

でも、より、本来の私そのものなので、そっちの方がいいんじゃないかな。

 

 

SNSの発信ツールが増えたので

前みたいに気軽につぶやきを書くことがなくなっていましたが

私の経験上、つぶやきや独り言をたくさん書いたその先にしか

「誰かにとってのいい話」なんて転がっていない。

 

なので、誰になんと思われようと

まずは独り言をたくさん書いたり言ったりするのはいいことだし

それは自分の声を聞くことと同じこと。

自分と向き合う、というやり方の一つだ。

 

 

 

さてさて

私にとってこの一年は、体を治すことが第一優先課題。

 

一年で終わるかなんて知らないし

この先十年とかこれが続くと思うと正直、やめておくれ、と思う。

 

病名がついた病気ではないし、病院にもかかっていない。

多少のHSPで、多少の過敏症。

表現が難しい。

 

 

反射(お母さんの胎内にいる時に、赤ちゃん自身の身を守るために体を固める反応で、脳を介さないため本人にコントロールができない)の影響があると知ったのも今年です。

 

子供の頃から体が硬い自覚はあった。反射のデパート状態?反射の宝石箱と言い換えてみようかな。

固める反射、モロー反射、原始反射、首の反射、手の反射、足の反射、、、多分全部あるはず。

詳しくないので説明は省くけど。

 

 

プラス、、、自分は右脚が奇形で生まれてきた、らしい。

 

親から「生まれつき股関節の何かに異常があった」ことは聞いていたけど、それ以上の情報はなかった。

最近、ニュースキャンという波動調整の機械を使って、DNAを調べて判明した。

 

自分でもそうだと思っていたので、確信が持てたことに少しホッとした。スッキリした。

そんな小さなことも、はっきりしないとモヤモヤがずっと心のどこかに残るものだ。

 

 

普通に歩いたり走れる、でも、それにより、足首、膝、が歪む⇨肩甲骨の位置もズレる⇨首が固まる→脳への血流不足⇨脳みその働きが悪くなる

 

横隔膜が固まりやすいのも、固める反射の影響だと思っている。

固める反射が強い場合、ポリヴェーガル理論でいうところの「背側迷走神経」が固まりやすいのではないか、という私の仮説。

「背側迷走神経」は生物が危険から逃れるためにの回避としての「不動」という行動の選択に関連する。

 

横隔膜の緊張は、ざっくりいうと現代人は普通にみんな緊張気味だけどね。

思考や潜在意識を使うところと、横隔膜周りの神経は繋がっていると感じる。

「リラックスが大事」というのは、横隔膜周りの緊張をとることとほぼイコール。

 

 

体って全部繋がってるから、どこかの不具合は体全部に影響がある。

 

 

普通の人なら、それでも、私ほどはこのことに悩んだり苦しんだり不快な思いをしないと思う。

 

私が「自分は他人と違う」と感じるのは、一ミリ単位の骨のずれで不快感や違和感を感じてしまうところ。

 

 

そのことでとっても困ったり悩んだりしてたわけ。

だって、私の頭の中のほとんどは、自分の骨や筋肉のズレをなんとかしたいことしかなくて

しかも、まだ途中だから、「私はこれをしたら治りました!」とか言えるものでもない。

 

それ以外の自分の興味ももちろんあるけれど、体からのこの声が大きく、すべて霧の如くかき消されていく。

 

どうしたもんかと思っていたんだけど

 

たまたま、ヴィクトールフランクルの「夜と霧」を読んで (霧の引用もたまたま)

 

「人生が、あなたに常に問いを与えている。あなたはその問いに答えなければならない」

 

 

言葉はちょっと違うけれど、そんな意味の言葉を受けとった。

 

 

 

第二次対戦中にアウシュビッツの強制収容所で想像を絶する日々を送り、周囲がバタバタと死んでいく中

生き残った、生き延びた、その体験を赤裸々に語っているその本は、とても有名なので知ってる人も多いだろう。

私もある自己啓発セミナーで、その本の話は聞いた。

どんな過酷な環境の中でも人は自分の信じるものがあれば生き延びることができるんだ、みたいな感じで受け取った。

実際に本を読んでみたのは初めてだったけれど、まあ、読んでよかったよね。

 

 

 

もう一度書くけど

 

「人生が、あなたに常に問いを与えている。

あなたはその問いに答えなければならない」

 

 

こういうふうに、人生について表現できる人に、心から敬意を感じる。

 

そして、言語化してくれたことに感謝を感じる。

 

どこかで何かもやっとしていたのは、この感覚を共有する人が周りに今いない感じがしていたからかもしれない。

 

 

 

おそらく、人によって、人生の捉え方として2種類のパターンがあると推測する。

 

1、人生には目的、ゴールがある。それは自分で設定するのである。そしてそれに向かって突き進む。

 

2、人生の目的は自分が決めるものではなく、人生の方からそれが向こうからやってくる。

 

 

 

私は明らかに2のグループに属するんだけど、なんだか1とごっちゃになってしまっていたなと思う。

 

「なんでこんな異常な体と24時間向き合わされるんだろう?これが一体なんになる?」とずーっと疑問だったんだけど

 

 

どうも、「この体と向き合うことそのものが、今の人生から求められている答えだ」ということだ。

 

 

それ以上もそれ以下もない。

 

おかげで、この件に関して今のところ

周囲の人とあまり話がかみ合わない、、、が

 

 

 

それでも、私は、自分の人生からの問いに答えようと思う。

 

「この先に誰かと交わる点が必ずあるよ」

 

と 微笑みながらささやく小さな響きに従います❤️