タイのスーパーで犬猫まみれ。
レジのお姉さんに「抱っこしていいよ」と言われてご満悦です。






さてさて。

mimiさんへ。



そうねえ。

どう乗り切ったか、と言われると
よくわかんないです。(笑)

時間がたって、変わっていったことはたくさんありますよね。

ふたりでたくさんもがいて、たくさん泣きましたよ。

わたしの場合は結婚していたから、「安心して」
それができたと思っています。

つきあっているだけなら、「別に、別れればいいや」という逃げがどこかに生じて、いまみたいにはならなかったんじゃないかなあ。ガッツリ向き合える相手がいるというのは、わたしはありがたいことだと思っています。そのときは辛いですけどね。


miniさんもすでに様々なことをトライされてると思います。パートナーは鏡であることとかも、すでにわかっていることでしょう。

自分が寂しいときは、相手も寂しいのです。
自分が悔しいときは、相手も悔しい。
自分が負けたくないときは、相手も負けたくない。
自分が相手を責めたいときは相手も自分を責めたい。
自分が辛いときは、相手も辛い。
自分が幸せなとき。自分に本当に嘘がないか、ごまかしが本当にそこにはないのか、まっさらなのか、何かから逃げようとしていないのかを、相手が知らせてくれます。まだ気がついてないよ、まだお前ココを見てないじゃないか、と。

それでも、そんな状態のなかにおいても
幸せだなあって、思えるかどうかです。
それでも、ああ、これでよかったんだなあ、と思えるかどうかです。

そうしなければならないわけではありません。

落ちるときに、落ちるのです。

わかるときに、わかる。

だから、いま、それが来なくても仕方がない。

それは、人間の力ではどうにもならないからです。

それは、どこからか、やってくるのです。

それを、恩寵と呼びます。

いまはそれしかできない。それで十分なのですよね、本来は。





批判的という言葉。

英語ではcriticalといいます。

criticalの意味を調べると



いわゆる日本語的な意味の「批判的」だけではなく

良し悪しを判断する、批評、という意味と

重要(危機的なほどに)という意味も含まれていることがわかります。




彼のぐちぐちいう批判的な態度

英語でいうと、critical behavior

「自分が批判されてる」という視点から

彼が、「それについて良し悪しの意見を述べている」

そういうすこし引いた視線で見ることができたら

また変わってくるかもしれませんね。

あなたが悪いのではなく

彼の、問題なのです。



心身共に疲れてると思うけれど

きっと、「それでよかったんだなあ」

と思えるときが

必ず来ますよ。

大丈夫。



ともこ