7/12日にラダックで書いた日記を見つけた。


ふーん族の独り言は、ふーん度が極まる。


その極まりが本人にはたまらなくテンションが上がるのだということだけは先に言っておこう。


陰極まりて陽になるとはまさにこのこと。

(そうか?)



😌🙏😌🙏😌🙏



朝の8時にレーに無事着きました。

飛行機から見えた景色は、昨年と比べると雪が多い気がした。



(実際、今年は雪が多く雪解けが遅れたせいで、乾いた山々に水が多く染み出し、緑の草やピンク、黄色のお花が可愛らしく覆い尽くす様子が、どこもかしこもまるでジブリの絵みたいになっていました。)






これはどこの山でも見たお花。セワという名前のお花だそうです。



黄色のお花畑とザンスカールのプクタル僧院。

メルヘンだ。




レーで、去年泊まったホテルが気に入って、泊まる。

(ホテルリンジー)https://www.agoda.com/ja-jp/hotel-lingzi/hotel/leh-in.html?cid=-370


ここの良さは、スタッフさんが素朴で優しいことと、熱いお湯が出ること、アーリーチェックインとか言わなくても朝からチェックインできるのが当たり前なこと。



うす暗くて「いかにも」な感じだった一階のレストランがモダンで西洋風に改装されていてびっくり。


経済がうまく回っているのなら良かったなと思う。(新しいカフェやお店がレーの街にも増えていた)



よし、これは部屋も期待できるか?という思惑ははずれて、部屋は昨年通りのシンプルさ。


やはり、ラダックに「ドライヤー」は無かった。髪は自然乾燥です。



バケツにお湯を入れてお風呂に入るのも違和感ゼロ。とにかくお湯が出るのが貴重。


(田舎にいくと水もなかったりする。トイレに水を流せるなんてありがたすぎる)




着いた途端ホテルのWi-Fiが切れてしまってるそうで、日本に連絡いれられず、仕方なくデジタルデトックス。(そのまま10日ほど連絡がつかず、ぢんさんに心配かけたね)



日本からレーまでの各飛行機の中でも問題なく通信できたのに、ここラダックでは相変わらず通信事情は悪い。



普段当たり前にあるものが無いから

あるものだけでもなんとかなる、日々になっていく。





2回目のラダック。

チベット密教やお坊さんたちに萌え萌えすることももうない自分に気づく。


瞑想もシンプルなものしか今はしなくなった。







Chopstick というお店でカレーを食べてみた。

一人だと量が多すぎるわ


生野菜、去年よりたくさんある気がするのはなぜ。





一人の時間を過ごしながら、ゆっくりと去年と今年の心境の違いに頭を巡らす。


自分の中の無意識の部分で「目指していた大きな何か」が、すっぽりと無くなった、または、変わってきたんだろうな、と思う。しらんけど。


去年との大きな心境の変化は、たしかにある。


それは、肉体と魂は別であることからくる、絶対的安心感みたいなものじゃないかと感じる。


肉体は死んでも魂は無くならない。


そのことは、知識では知っているし、言葉として知っているものだし、ヨガ哲学でも肉体と意識とエネルギー体についてさんざん勉強するもので、「はいはい」って感じなんだけど。


でも以前は「そのことの意味」を、さらに深掘りして、なぜ、なぜ、なぜ、と探していたんだと思う。


「それを知っていることがいったい何になるのか?」


ということを、いまは全く思わなくなった。



「そうなんだね」

そう思う。



つまり、そのことの意味を求める自分がいなくなった。



それって実は大きいことなんだよねー、、、



それからくる安心感みたいなものが、自分のなかの源の根を張りつつある。


感覚でいうともともとそこにあった土台が、砂まみれのなかから形を現しつつある感じ。



木の実が

熟して

ぼとんと落ちた。



落ちた実が、落ちて、そこに落ち着いた。


その感覚は、悪くない。


もうそこを疑わなくてもいいという安心感なのかしら。



その上で、自然とともに生きる人々、辺境の地だから、自然とともにしか生きる術がない人々の、曇りのない笑顔の輝きに、また触れたいなあ〜と思うね。


だから、ラダック語を少しは覚えてみるぞ。

(で、その後覚えたよね。)


そんな感じの初日。


今日は少し曇り空。

散歩でもしてくるかなあ〜




😀😀😀😀😀😀


ということでした。