■真は誠に偽に似て、偽は即ち真に似る(赤根武人(あかね?たけと))。 慶応元(1865)年の春以降、赤根武人の軌跡はわかりにくい。(文化部編集委員 関厚夫)。しかし、審理が開かれることがないまま、1カ月後、赤根は斬首刑に処される。 上京し、西郷隆盛や勤王派の筑前福岡藩藩医、早川養敬(ようけい)らと薩長筑3藩連合の実現に向けて協議しようとしていたが、妓楼で幕吏に捕縛され、投獄される。 約7カ月後、釈放された赤根はこともあろうに、第二次征長問題で長州側との折衝役である幕府大目付、永井尚志(なおゆき)や仇敵(きゅうてき)の新撰組隊(局)長、近藤勇らと行動をともにし、ひそかに長州藩に入る。 赤根のために弁護するならば、彼の志は「百万庶民を戦禍から救え、日本を外海から衛(まも)るに内乱を止めよ」(村上磐太郎著『赤根武人の冤罪(えんざい)』)というものだった。そのさい、切腹を勧める元岳父に対し彼は、「お裁きの場で真偽を明らかにする」と応じなかったという
。また、「我(われ)を処断するならばまず時田少輔(ときたしょうすけ)(長州藩支藩の長府藩家老格)に(その当否を)聞け」と静かに語り、刑場にむかったという。辞世は《真は誠に偽に似て、偽は即ち真に似る》。が、かつての同志だった正義(改革)派が彼を見る目は「間者」「裏切り者」だった。 享年29(数え)。 同じ年の12月27日(旧暦)、故郷の周防?柱島に潜伏してFF14 RMTいた赤根は出頭した。赤根が帰国したという情報が伝わるや、追っ手が放たれた
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