1862年8月22日-1918年3月25日
ドビュッシーは、フランス中部のサン・ジェルマン
・アン・レーで5人兄弟の長男として誕生した。
父親は陶器店を営んでいたが事業に失敗して
サン=トノレ通りのアパートに引っ越した。
7歳でピアノを学び始めると10歳でパリ音楽院に
入学したが、学校内ではピアノコンクールに失敗し
ピアノクラスの進学に失敗したため作曲に進んだ。
1880年~1882年の2年間ほどは
チャイコフスキーのパトロンとして知られる
フォン・メック夫人のお抱えピアニストとして
夫人の自宅や別荘などで滞在して作曲や
チャイコフスキー作品のアレンジなどをして演奏した。
1893年ガブリエル・デュポンと同棲を始めるが
この時期にメーテルリンク『ペレアスとメリザンド』の
戯曲と出会いオペラにしたいと申し出た。
作曲を始めると、歌手テレーズ・ロジェとの関係も深め
結局、恋人とは婚約解消することとなった。
『ペレアスとメリザンド』のオペラについては
ドビュッシーは、歌手メアリー・ガーデンを起用した。
メーテル・リンクは、愛人ジョルジェット・ルブランを
起用したかったため、ドビュッシーに対して執拗に
嫌がらせや脅迫をしたが、結局覆ることはなかった。
1899年マリー=ロザリー・テクシエにデュポン(リリー)
と結婚したが5年経つと関係がうまくいかなくなった。
作曲家としてはすぐには収入の入ってこないため、
ピアノ教師と音楽評論家の副業をしていたが、
生徒の一人に、エマ=バルダッグの息子ラウルがいたが
母親のエマに惹かれ始めた。
ドビュッシーは、妻リリーを実家に送り届けると
エマと二人で不倫旅行を楽しんでパリに帰ってくると、
妻との関係は終わったと友人達に手紙で知らせた。
それを知らされた妻リリーは胸に銃を撃ち
自殺を図ったが、急所をはずれて助かった。
バルダック家もその騒動を知ると、エマを勘当して
1905年5月に正式に離婚が成立した。
1905年10月に娘クロード=エンマ(シュシュ)が
誕生すると、1908年ドビュッシーとエマは結婚した。
1909年フォーレの招待でドビュッシーが音楽院運営評議会のメンバーとなり、ようやく作曲家としての仕事が
成功を収めるようになったが、その時期に結腸直腸癌の
診断を受けて、1915年人工肛門手術を受けたが益々
病状が悪化して、1918年初頭から寝たきりになった。
1918年3月25日に自宅で亡くなった。
Piano Trio in G Major
夢(オーケストラ)
ベルガマスク組曲 (オーケストラ)
ペレアスとメリザンド
(1904年メアリー・ガーデンの歌声の録音)
Debussy plays Debussy: Golliwogg's Cakewalk (1913)
ベルガマスク組曲 1430円
1880年フォン・メック夫人宅に住んでいた18歳頃の作曲作品
Piano Trio in G Major
1.Andantino con moto allegro (G major)
2.Scherzo: Moderato con allegro (B minor, trio in B major)
3.Andante espressivo (G major)
4.Finale: Appassionato (G minor → G major)
夢(オーケストラ)
ベルガマスク組曲 (オーケストラ)
00:00 - Prelude'(プレリュード)
04:17 - Menuet(メヌエット)
08:21 - Clair de Lune(月の光)
13:09 - Passepied(パスピエ)
小組曲(オーケストラ版)
ペレアスとメリザンド
1904年メアリー・ガーデンの歌声の録音
Debussy plays Debussy: Golliwogg's Cakewalk (1913)