読売新聞オンライン記事の最後の方に
ベートーヴェンはパリへの移住を考えていたと
載っていたので、そこに興味を持った。
<作曲活動で作品の引用について>
ベートーヴェンは作曲家を目指してハイドンから
「クラーマー=ビューロー」という
ピアノ練習曲集がある。
これはクラーマーという作曲家作品を、後年
ハンス・フォン・ビューローが編集したので
二人共著のような練習曲集になっているものだ。
ベートーヴェンとクラーマーは年齢が近く、
二人は直接対面したことがあったことを
直弟子チェルニーの残した手記の中にあり、
弟子たちとは全く別扱いで、一目置いていて、
対等に接していたというので、クラーマーの
能力の高さを買って、作曲活動に、
この人物の協力を必要としていたのを感じた。
クラーマーは、ロンドンでピアニストとして活躍し
ピアノ製造会社と印刷会社の企業家としても成功を
収め、ロンドンフィルの共同設立者でもある。
ベートーヴェンは、そうして様々な作曲家らから
作品引用や協力を得て、さらに立派な音楽作品を
完成させる才能があったので、誰よりも有名な
作曲家として、名声と音楽が、今の時代まで
生き残ったことを思えば、模倣があったにしても、
その功績は大きかった。
そして19世紀~今の時代の多くの作曲家や
音楽愛好家に影響を与え続けている。
読売新聞記事にパリ移住を見据えていたとあるので
ベートーヴェンは、いつ頃に、何故、フランスへ
移住しようとしていたのか、その理由は、
この記事の中に触れていなかったので
大変に興味を持った。
1780年代後半からのフランス革命で絶対王政が
崩壊して、活気づいた民衆の中で演奏会を開催して
ベートーヴェンの音楽をパリ中に響き渡らせたい
野望があったんだろうか。
それとも、単にスランプからの脱出のために
環境を変えたかったんだろうか。
現実的にはパリへの移住は実現しなかったけれども、
パリにどんな夢を描いていたのかなと思った。