25年くらい前、林真理子原作で
『不機嫌な果実』というドラマがあった。
ドビュッシーと後妻エンマとの恋愛事情を
今風に仕立ててドラマにしたようだった。
多分、林真理子さんはドビュッシーの
ロマンスが好きなのかなと思いながら
そのドラマ作品を面白く見ていた。
ドビュッシーは、若いころはチャイコフスキーのパトロンのフォン・メック夫人に気に入られて、メック夫人の抱える楽団や家族と共に旅に出た時期があり、メック夫人の15歳の娘に恋をして交際を申し込んだことがあった。
1894年『牧神の午後への前奏曲』作曲。
テレーズ・ロジェと婚約するが、一月後に破談となる。
1895年ドビュッシーの代表作
(初演は1902年)
『ペレアスとメリザンド』
メリザンド役のメアリー・ガーデン
1895年~7年頃、『ペレアスとメリザンド』の戯曲を手掛けた頃、ギャビーという女性と交際していたが、ドビュッシーの浮気発覚により、ギャビーは銃で自殺を図った。一命をとりとめて田舎に帰っていった。
この『ペレアスとメリザンド』のメリザンド役に、メーテルリンクは愛人ジュルジェット・るプランを起用したかったのを、ドビュッシーはメアリー・ガーデンを起用したために、メーテルリンクの妨害工作に遭いアクシデントが続出し賛否両論はあったが、結果的に大成功をおさめた。
その後に、最初の妻リリー・テクシエと出逢い、1899年結婚をする。ドビュッシーは猫好きで夫婦で猫を可愛がり幸せに暮らしていたが、リリーの流産をきっかけに夫婦の仲はギクシャクしはじめると、ドビュッシーは外泊が増えていった。
1903年銀行家の妻エンマ・バルダックと出逢うと、バルダック家のディナーに招待されたり、内輪の音楽会でエンマの歌にドビュッシーがピアノ伴奏して楽しむうちに二人の仲は急速に進展し、1904年の夏に二人はイギリス海峡のチャネル諸島にある島のホテルに滞在し恋を貫く。
そして、『喜びの島』は誕生した。
1カ月後、駆け落ちした二人はパリに戻ると、そのままアルファン街のアパートに居をかまえたため、夫に捨てられた妻リリーはピストル自殺を図る。
エンマも、夫と離婚訴訟の決着がついて1905年離婚成立し、ドビュッシーも3カ月後の8月にリリーと離婚成立する。正式にエンマとドビュッシーが結婚したのは、シュウシュウが誕生してからのことだった。
すっかり著名人作曲家となったドビュッシーは収入には困らないはずだったが、エンマの高い生活水準に合わせた結果、火の車となり馬車馬のように働くこととなったが、次第に体調を崩し始める。
自分の人生を荒波に喩えて、
「嵐の海に囲まれていると自分の人生を実感する」と『海』という傑作が生まれた。
1905年には、ドビュッシーとエンマの間にクロード・エンマ「シュウシュウ」が誕生する。
子供の誕生の年に『映像(第一集』
その2年後に『映像第二集』、1912年『第三集』を完成させた。
1908年、娘の誕生プレゼントに『子供の領分』
エドガー・アラン・ポーの『アッシャー家の崩壊』を元にしたオペラの制作にとりかかる
1909年頃からは大腸がんの自覚症状が出始めて、だんだんに悪化していく。
1915年直腸がんの手術を受ける
『アッシャー家の崩壊』作曲を続ける
1916年ラジウムによる放射線治療と
2回目の手術を実施。
痛み止めのモルヒネを常用した
1917年頃までは快方に向かうかにみえた
『アッシャー家の崩壊』台本完成するが
音楽は未完に終わる。
最後の作品
『バイオリンとピアノのためのソナタ』
1917年後半寝たきり状態に陥る。
1918年3月25日夕方6時頃死去(55歳)
サンソン・フランソワ 喜びの島
サンソン・フランソワ
ベルガマスク組曲からプレリュード
ドビュッシー演奏Golliwogg's Cakewalk
メアリー・ガーデン歌
ドビュッシーピアノ伴奏