2022年7月21日 私ブログ記事

 

 

 

 

 

この伊多波刀神社の由緒について、源頼朝が武運長久を祈願して朱印地と甲冑3領を寄進したとか、織田家の寄進を強調しているけどどうなのかな?

 

私がこの神社を歩きまわり、最古の物は1731年(享保16年)の手水舎だけで、それよりも古い物は何も置かれていない。

 

以前、社務所の氏子役員さんに織田家に関する史料があるのかを尋ねたら「見とらんでわからん、そんなもんは知らんわ」と言っていた。

 

多分、享保16年に7代目尾張藩徳川宗春が着任の祝いで、神社に手水舎を献呈したことは、殆ど誰にも知られていないようなので、ブログ記事にしておいた。この史実はWikipediaに載せられていない。

 

(但し、この手水舎の字体を見ると300年前に彫ら  れた字体と、八幡宮、田楽ーと彫られた字体が違うのが気になるところ)

 

7月22日、

新氏子総代さんと話をする機会があった。

社務所内に最も古い織田家の物があるかを尋ねたら、「整理したら色々と出てきたものがある」とおっしゃっていた。

 

それから、今、春日井市役所に、神社の古文書の解析を依頼してあるとの話だった。「いずれ、それらの物が揃ったら見せてあげるよ」とおっしゃって下さったので、神社さんに保存されている歴史資料を見られる日が訪れるかもしれないので、ワクワクしている。


時々、この神社を撮影に訪れて下さる方があるので、是非、この手水舎を見つけていただきたい。

 

7代目尾張藩藩主

 

1731年(享保16年)は、徳川宗春にとって大変重要な年だった。享保15年徳川通春を名乗っていたのを、吉宗から名を一字与えられて「徳川宗春」を名乗り、4月に名古屋城入りして祭りなど奨励した。様々な規制を緩和して賑わいを取り戻させた。

 

尾張藩内管轄の神社仏閣に寄付などしたことを考えると、この手水舎はその一つが残っているのかなと思う。

 

この地域は鷹来地区といい、昔から大名らが避暑や鷹狩りに訪れていたところから、この地名がついたと聞いたことがある。小牧山からも近い。

 

尾張藩は、墓石に鵜沼石を使っていたようで、もしかしたら献呈された手水舎の石も鵜沼石なのな?石について詳しくないのでわからない。

 

伊多波刀神社本殿脇にひっそり置かれている

使われていない手水舎(ちょうずや)

 

雨風で削れてしまい読みにくい

右側  享保十六 

左側  八月吉日  

と読める。

 

 

 

いつからあるかわからない手水舎

 

現在、使われている手水舎