ポーランドの立場から 

2分頃からソ連側の圧力について語られている

 

ソ連側の立場から語る 

26分頃のところでコンクールについて触れられている

 

ショパン国際ピアノコンクールの第1回は第一次世界大戦後の

1927年に第1回が開催されることとなった。

審査員12人で審査は1週間ほどとこじんまりしたものではあったが

ソ連から強豪の参加者が送り込まれてきて優勝をさらっていった。

この時のファイナリストにはショスタコービチも含まれていた。

 

先駆けとなるアントン・ルービンスタイン・コンペティション時代から

ロシアの権威は絶対的なもので、それは戦後も変わらず続いたようで

国際コンクールは政治的な力に支配されていたことになる。

 

上の2つの動画は、1949年ショパン国際ピアノコンクールで

起きた事件について、それぞれの立場から語っているもの。

 

中村紘子氏は、2000年ショパン国際ピアノコンクールの審査員として

ワルシャワを訪れた時に、関係者から聞かされた話があった。

第二次世界大戦まではソ連が優勝することはあっても

ポーランド人が優勝することはできなかった。

 

1949年戦後最初のコンクール開催の時にもソ連政府が強引に

ソ連を1位にするようにと圧力をかけてきたが、ポーランドは

それに屈することなく、その年の優勝は

1位ハリーナ・チェルニー・ステファンスカ(ポーランド)であり

そしてもう一人が、ベラ・ダヴィドビチ(ソ連)であった。

 

下の動画はモスクワ音楽院ピアノ講師のゲンリヒ・ネイガウスに

ついてのドキュメンタリーで、この中にゲンリヒの息子スタニスラフの

話が出てくる。スタニスラフはブーニンの父親である。

 

1949年スタニスラフはワルシャワで開催されるショパン国際ピアノコンクール

の出場権を1位で獲得したが、ワルシャワ行きの飛行機から降ろされ出場を

認められなかった。ここでは関係者はゲンリフがソビエト連邦政府から酷い扱い

を受けてきたために、息子の参加を認められなかったと理解したと話している。

 

上の中村紘子氏の動画が事実ならば、実際はソ連政府はスタニスラフを

何が何でも優勝させるよう圧力をかけた結果として、ポーランド側から

出場を認めないとレッドカードを切られてしまったということになる。

ソ連政府が余計なお節介をしなければ、スタニスラフは参加もできただろうし

自力で優勝を勝ち取っていたかもしれないのに残念な結果となってしまった、

ということらしい。

 

いずれにしてもポーランドは自国に優勝をもたらすためには

最も実力のあるソ連の参加者を演奏させる前に排除する戦略に

出たのを感じた。

 

19世紀では通信網や電子機器などが発達してきたわけではないので

演奏家は手を変え品を変え、様々な工夫をして聴衆を楽しませる事を

試みていたものだったけれども、20世紀に入ると変化を始めた。

 

戦後復興が始まると、世界的にラジオやレコードなどが発達し

聴衆の層にも変化が見られるようになり、情報手段や輸送手段の

目覚ましい発達は音楽に大きな影響を与えることとなった。

 

演奏や作曲の分野にも変化が起きて、レコードなどで

繰り返し聞かれることにより、ミスのない傷のない演奏が

喜ばれるようになったために、ピアノコンクールの課題曲も

与えられた作品をいかにミスを少なくきちんと演奏することが

できるかということがコンクールにマッチしてきたといえる。