『国際コンクールの光と影1』では、ショパン国際コンクールの先駆けの

コンペティションの時代には、ロシア、ドイツや西側諸国が中心となり

開催されており、政治的背景や権力などが影響していた事や

当時のポーランドの置かれた立場などの話が紹介されている。

 

ポーランド出身パデレフスキが音楽家として花開くまでと

第一次大戦ではポーランドを守るために音楽家から

政治家に転身しポーランド首相として活躍する話なども登場する。

1922年スイスに渡る。その後アメリカなどで演奏活動を行い

1941年80歳の時にNY市で客死する。

 

19世紀~20世紀にかけてショパン国際ピアノコンクールの先駆けとなる

アントン・ルービンスタイン・コンペティションがロシア、ドイツと西側諸国で

1890年~1910年まで開催されていた。当時ピアノ部門、作曲家部門があった。

 

1890年第1回(サンプトペテルブルグ)ニコライ・ドゥバソフ、フェルッチョ・ブゾーニ

1895年第2回(ベルリン) ヨゼフ・レヴィーン 、ヘンリク・メルサ=シュツァビンスキー

1900年第3回(ウィーン)エミール・ボスケ、アレクサンドル・ゲディケ

1905年第4回(パリ)ヴィルヘルム・バックハウス、ベラ・バルトーク

1910年第5回(サンクトペテルブルグ)エミル・フレイ、

フランク・メリック、アルフレッド・ホーン、

この後、1914年7月~1918年11月まで第一次世界大戦

 

このコンペティションを主催した人物アントン・ルービンスタインは

ユダヤ人ではあるがロシアのサンクトペテルブルク音楽院創設者となった。

余談で弟のニコライ・ルービンスタインが創設したのがモスクワ音楽院である。

有名な作曲家チャイコフスキーは、サンクトペテルブルク音楽院で学び、

モスクワ音楽院で学生達に作曲を教えていた。

創設者はユダヤ人でありながら、ユダヤ人を排除してロシアとドイツの

権威を強めていった。

 

1910年第5回には、アルトゥール・ルービンシュタインが参加したが

ポーランド出身のユダヤ人であるために、実力がありながらも

1位に選ばれることはなかった。けれども見事な演奏であったために

無視もできずに表彰状1枚の授与で終わったことが触れられている。

 

また、エドウィン・フィッシャーも参加していたが、くじ運が悪く

演奏順1番が災いして1回戦で落ちてしまったという話も

聴くことができて、なかなかおもしろかった。