高村光太郎サンタクロース

 

 

私は、ときどき高村光太郎の芸術論についての本を眺めて

光太郎の言葉を探すことがある。

肉声を聞いて想像していた通りの声だった。

 

光太郎の日記には草野心平と会った日のことが触れられてある

昭和28年4月15日 水 晴

午前モデル、午后中島氏、三原堂の女主人同道くる。

草野心平氏くる。水谷八重子と面会したしとの事。

一緒にクラブトーキョー、神田、丸善にてジャンパー、

車坂にてスッポン錠、浅草江戸子天ぷら、火の車、

新宿よしだ。別れてかへる、九時半、 便

文芸読本高村光太郎より抜粋

 

高村光太郎と草野心平との対談

 

「芸術について2」では

光太郎、未完の大作「東京エレジー」の創作について大いに語る。

 

「東京エレジーの作品創作について、交響楽みたいにね
 途中であんまり引っかかりすぎちゃってね
 アレグロだから、こういうのを入れちゃいけないだろうとか
 アンダンテだからどうしようとか、なんてことで
 かえって不自然になっちゃうから、そんなことかまわずにやろうと思って
 第3楽章あたりのところはごく軽い自由に勝手に入れて楽しむとか・・・
今の時代は、1年もってると変わっちゃうんですよ

 

高村光太郎は詩を構築する時、感性に頼るよりは理性的に

まるで交響曲の作曲でもするように創作をしていたのがわかる。

 

 

 高村光太郎 詩「顔」  朗読兼定将司

 

 

 

高村光太郎の弟豊周の孫達がエピソードを語る場面がある。

その中で、妻の智恵子が病院で他界した時の様子に触れ、

亡骸をそのまま抱いてタクシーに乗せて家に連れ帰ったそうで、

動転していたのか、死を受け止めることができなかったのか

その哀しみの深さが伝わってくる話が印象に残った。

 

高村光太郎について