1986年光岡さん製作チラシ    

マルセル・マルソー氏のサイン

 

 

 

昨日、ある方からメールを頂いた。

光岡さんとギトリスさんについて検索をしたところ

私のブログに行き当たったというお話だった。

 

電話をかけたら直接にお話ができた。

最近、ギトリスさんの演奏を聴きに行かれたそうで

車椅子を使用したり、椅子に腰かけて奏でておられたけど

素晴らしかったとお話を伺えた。

 

光岡さんは胃がんのため2000年2月25日に永眠された。

ギトリスさんからも友人として弔電が届けられた

 

その前年9月頃だったか、病気が発覚した時に

すぐに電話を下さって
「最近、疲れやすいなぁと思って検査したらさ、、
 遅かったみたい、、、あと半年早かったらって
 もう悔しくて、、、すごく後悔しているよ」
 
気弱で、言葉に詰まりながら20分ぐらいだったか、、
電話で話をしていた日があった。
冷静な光岡さんらしくなく混乱した様子だった。

 

亡くなられる1か月位前だったか、、、
がんセンターから
「今、点滴しながらなんだけど、、」
と電話を頂いて、 小さな声だけれども落ち着いて
ご自身の心の整理ができている様子だった。

「あのね、、、僕、もうダメだと思うから、、、
 ギトリスさんのコンサートなんだけどね、、、
 見に行ってね、必ず、行ってね
 僕、もう、、、」

 

近く控えていたアナ=マリア・ヴェラのコンサートのこと、
ギトリスさんの演奏会のこと、光岡さんが仕切らないとと
いったようなことを私が言ったので、そのことになると無言だった。

 

それが最期の会話になったけれども、ご自身のお身体のことより、

とにかくコンサートを開催することで頭がいっぱいだった。

 

「ギトリスさんのために命を削っても惜しくない」と話しておられたけれども、

それでも、私はアートハウスがなくなってしまったのは本当に寂しい。

 

 

何故、私がアートハウス光岡さんと親しかったのか

光岡さんが亡くなられた時も、葬儀の段取りで

役者さんから電話がかかってきて尋ねられた。

 

「光岡さんの住所録に、あなたの名前だけ

 他の方とは違うところに記されてありましたが、、、

 失礼ですが、どういったご関係だったのですか?」

 

「のりちゃんは、僕の大切な友達」と言って下さっていた。

 

私は光岡さんところの仕事スタッフだったか?と勘違いするほど

毎日、光岡さんとお会いしていたし、事務所でコーヒーを入れて頂いて

お喋りして過ごし、お食事をしたこともあったし、仕事の手伝いもしたし、、、

本当にご一緒する機会が多かったので、制作のノウハウも学ばせて頂き

私にとっては大先輩で恩人であり、最も気の合うお友達だった。

 

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20歳頃、私は図書館学を学んだ後に読み聞かせに興味を持ち

当時は劇塾の女優山田昌さんに朗読を学び始めた。

学んだ場所は御園座の裏通りにあった名古屋舞台芸術協会

事務所だった。そこに舞台制作会社アプシュルトス杉浦さんも

電話を引き片隅を間借りして仕事していた。

 

そこで知り合った舞台女優フクちゃんが妊娠5カ月位だったか、

舞台役者以外の名古屋ミュージカル協会の事務仕事が、

いつまで続けられるかわからないので、良かったら

仕事を引き継いでくれないかと声をかけられた。

 

名古屋ミュージカル協会のオーナーは藤井知昭先生で、

面接を受けたら、その場で勤務することが決定した。

 

当時は藤井知昭先生の民族音楽研究例会も催されたり

名古屋文化振興事業団との共同制作企画については

アートハウスの光岡さん、アプシュルトル杉浦さんに

マネジメントのノウハウなどを学び、ご協力頂いていたし

顧客名簿など貸して下さったり、ポスターやチラシの作成、

当日の舞台のチケットもぎりまでの段取りなどマネジメント

業務について、つきっきりでお世話になっていた。

 

私は事務所の休憩時間など少し時間ができると、

近くだった光岡さんの事務所に遊びに出かけては

光岡さんの入れて下さるコーヒーを飲みながら

戦後すぐに舞台関係の仕事でドサ回りをしていたことや

中区東新町にあった名演小劇場で仕事をしていた時代の

話をうかがったりしたことがある。

 

アートハウスには地元を中心にご活躍の芸術家さんが

多く出入りする事務所だったので、

時折、お茶を飲みながらの話に参加させて頂いた。

 

たまに名古屋市民会館で朝日新聞社系の芸術舞台があったり

地元のクラシックバレエ団の発表会などが行われると、

光岡さんからチラシの挟みこみや、チケットもぎりを

手伝って欲しいと依頼されたので、その手伝いをしたり

アプシュルトス杉浦さんからは劇団彗星の電話予約やら

公演当日のチケットもぎりなどを頼まれると手伝っていたので

仕事のうえでも、お互いに助け合う関係にあったと思う。

 

そういった仕事を手伝うかわりにご褒美として、

朝日新聞社系の芸術舞台のゲネプロなどを見る機会にも

恵まれて、それが心の栄養になっていった。

 

1986年、パントマイムのマルセル・マルソー氏の舞台終演後に

光岡さんから「楽屋に行っておいで、マルソーさんに会えるから」

と言われるままに楽屋に向かったら、すでに化粧を落として

椅子に腰かけて休んでおられた。

 

友人と私は、フランス語も英語もできないので、

何も話しかけられず戸惑いにたたずんでいたところに

岐阜から、わざわざ公演を見に来たという制服姿の

男子高校生2名がやってきて、堂々とした英語で

マルソーさんに話しかけていた。

 

いつか、僕たちもマルソーさんのようなパントマイムで

舞台に立てるようになりたいですと話していたと思う。

マルソーさんは、とても喜んでおられた。

 

ふと、あの時の高校生達は、今、どんな仕事に

就いているのかなと思い出すことがある。

 

ある日、アートハウス事務所に入ってくとバイオリンの音楽が流れ

光岡さんから「のりちゃん、この音楽を生で聞きたくない?」と尋ねられた。

 

つづく