2010.7.26
7月26日、ポル・ポト大虐殺の国際刑事裁判の判決が下った。
35年の懲役刑で、被告は現在服役しているため残り19年の刑に
服すことになる。
これは被害者の遺族達にとって納得できるものではなかった。
なぜ、これほどに緩い判決が下されたのかというと、
被告がクメール・ルージュの幹部ではなかったためだ。
次回、クメール・ルージュ幹部の判決が下されるが、
それは、司法の判断を試すものになるという。
2009.2.17
ポル・ポト派による大虐殺の国際刑事裁判の初公判
今日、カンボジアのプノンペンでポルポト派のドッチ被告はじめ
5人に対してカンボジア人を大量に虐殺した罪で国際裁判が行われた。
この大虐殺は1975年~1979年にポル・ポトを中心とするポルポト派によって、
宗教家、教育者、医者など知識人をはじめ、4分の1以上のカンボジア人達が
虐殺された。
今回、裁判にかけられているドッチ被告は、逮捕されるまで国境近くの農村で、
数学教師をしながらカトリック教徒として密かに生活していた。
判事がドッチに、どんな判決を下すのか注目されているが、
この裁判にたどり着くまでには、30年という長い年月を要した。
<この国際刑事裁判開廷までの気になる報道>
裁判の開廷にこぎつけるまでに数十億円かかっていており、汚職や司法の
腐敗があったことも伝えられている。国連の決議によってルワンダの裁判も
国際刑事裁判で行われたが、それにはもっと費用がかかったという。
日本は、この国際裁判に25億円出していたという。総額の半分以上だ。
国際的な司法裁判は金銭的な取引でも行われているのかと気になった。
色々と障害があってもこの裁判を中止にしなかったのは、検察当局が
これまでにポルポト派による大虐殺が行われたことを見逃して、
犯罪者が一生自由でいられるのは許されないと思いが働いたからという。
責任を問うべきではないかと疑問をなげかけてきたことで、30年もかかり、
ようやくこの裁判が実現することになった。
ただ残念なことは、たった5人の幹部だけが裁かれることだ。
他にもリーダーはいた。いまだに否定している者達がいる。
国際法廷では、その否定を失くすことをしたいとしているが、
今後、この5人以外は裁かれないらしい。
また、この大量虐殺の裏には中国にも責任があるのではないかと
意見を持つ人も少なくない。
この裁判の目的は、カンボジア人たちが司法を取り戻すこと、
なぜ、こんな事件が起きたのかを知る権利を求めるとしている。
多くの人達は、この事件の全容解明と責任追及を望んでいる。
この国際刑事裁判の初公判は、カンボジアで成立している法律によって行われる。
多数がカンボジアの判事だが、その中に複数の国際判事も混じっている。
双方の判事達の多数決によって行われる。
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カンボジアのポルポト時代の歴史
カンボジアは、昔はフランス領だった。太平洋戦争で日本がインドシナを占拠すると、
日本の統治下の独立国カンボジアになり、日本が敗戦すると、ふたたびフランス領下
のカンボジアに戻った。
シハヌーク国王が、フランスからカンボジアを取り返し独立した国にした。
そして国王の座を父に譲ると、シハヌークは首相に就き王政社会主義を築く。
その時、政界で左、右が対立するたびに、ポル・ポトに弾圧を加えていた。
そのため、ポル・ポトは地下組織になり中国の共産主義に傾倒していった。
また、中国からは支援を受けていた。
1970年、シハヌーク国王が病気治療で中国に滞在している間にクーデターが起き、
カンボジア国防相のロン・ノルが首相に就任した。
シハヌークはベトナムとの間に和平を保ってきたが、ロン・ノルはベトナムを弾圧した。
その陰に、アメリカの画策があったのではないかと見られている。
追放されたシハヌーク国王はポル・ポトを頼ることになり、1975年にロン・ノルから
再び、カンボジアの政権を奪還することはできたが、実質的にはポル・ポトに
政権の実権を乗っ取られることになった。
そして、ポル・ポト派によるカンボジア人の大虐殺は起きた。
知識人など地位の高い層の民衆に政治的弾圧を加えることで、
恐怖を与えて従わせていたと見られる。
ポル・ポト派に捕らえられた多くのカンボジア収容者達は、カンボジアに
中国の飛行場滑走路を作るための労働力として使われていたらしい。
中国は、ポル・ポトを支援していたのか利用していたのか知らないが、
係わっていた事実があるので、中国の責任も問われるべきと声がある。
キリングフィールドの映画を観たことがある。
恐ろしいと感じた。
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