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① 神想観のやり方



○ 基本的神想観



最初招神歌(かみよびうた)を歌います。歌の終わったしるしに気合をかけますから、その気合を合図に一斉にそのとき私が申します通り、心の中で念じていただきます。
 

終りに「天照(あまてら)す御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の生命照(いのちいてら)し宇宙静(くにしず)かなり」の歌を二回歌います。二回目の歌の終りに手を二つ叩いて「終り」と申しましたら眼を開きます。それまで瞑目合掌して下さい。



瞑目合掌、用意‼︎



生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸え給え
(いきとしいけるものをいかしたまえるみおやがみもとつみたまゆさきはえたまえ)
 

吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
(わがいくるはわがちからならずあめつちをつらぬきていくるみおやのいのち)
 

吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生る祖神の権能、天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家大神守りませ
(わがわざわわがなすにあらずあめつちをつらぬきていくるみおやのちからあめつちのみおやのみちおつたえんとあれましし生長の家の大神まもりませ)



気合い
(イゥーユー)

次の如く念じます。

「吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入(い)る。此処(ここ)がこのまま実相の世界である。」

「神の無限の知恵の海、無限の知恵の海、神の無限の知恵の海、〃
「神の無限の愛の海、  神の無限の愛の海、神の無限の愛の海、〃
「神の無限の生命の海、神の無限の生命の海、神の無限の生命の海、〃
「神の無限の供給の海、神の無限の供給の海、神の無限の供給の海、〃、
「神の無限の悦びの海、神の無限の悦びの海、神の無限の悦びの、〃、
「神の無限の調和の海、神の無限の調和の海、神の無限の調和の海〃」



こう見渡し見詰め終りましてから次の如く念じます。

「この大調和の実相の世界にいて、吾れ神の子として神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである。」

「神の無限の生かす力」というのは、神の智慧、愛、生命、供給、悦び、調和の六つの御徳ひっくるめて言ったのであります。

その光輝く神の無限の力を吸い込む気持ちで、こう念じながら、静かに静かに鼻より息を吸うのであります。単に空気を吸うと思わず、眼の裏に光輝くものを描きまして、それを吸い込む気持ちで、静かに息を吸いながらその光り輝くものが、合掌の先の中指の先の辺りから流れ入って、そしてそれが頭の先から、全身に流れ入って、全身が一息吸う間に、光り輝くもので満たされてしまう有様を心の眼で見詰めるような気持ちになる。

ここが大切なんですよ。ただ「流れ入る…」と呪文を唱えるような気持ちではなくて、神の生かす力が流れ入る有様を心の眼でじっと見詰め、見送るような気持ちで徐々に頭の先から吸う息に従って、だんだん顔、後頭部、胸、背中、腹、腰、ず‐っと爪先に至るまで光輝くものが流れ入って、物質の不透明な肉体が光と置き換ってしまうような気持ちで、それをじっと見詰めるのです。

そして息を静かに吸いながら、息の入る感じを光輝く神の生かす力が流れ入っているんだという感じに連想させてゆくのであります。そして静かに静かに息を吸いながら、心のうちで、

「神の無限の生かす力自分の中(うち)に流れ入る流れ入る…」

とこう念ずるのです。それで念ずる言葉と、息の流れ入る感じと、眼の裏に描いた光輝くものが、流れ入ってゆく感じとがピッタリ一つになって、本当に神の生かす力が流れ入ったという感じを起すことが大切であります。

「神の無限の生かす力流れ入る…」

とこう繰返し念じてすっかり息が入りましたら、鳩尾(みずおち)を脊柱の方に引っ込めて、その辺りの息を下腹の方へ送り落す気持で「ウーン」と、声は聞えないけれども、幾らかいきむような気持で、その息を下腹に落して下腹を前方に膨(ふく)らし、そして力を下腹に軽く入れますと下腹に充ち満ちた感じが起ります。それを「流れ入る…」と念じていたその「神の無限の力」に充たされているという感じにもっていって、そして、

「満たされている。生かされている。満たされている。生かされている。ありがとうございます、ありがとうございます…

もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり。」

こう念じて神の生かす力に光り輝いている自分を心の眼でじっと見詰めいます。
息は呼(は)こうと思いませんが下腹にだけ力を入れて下腹を膨らましていると、胸にも喉にも、力がないと自然と鼻から徐々に息が洩れれて出ます。息が洩れるのがわからんくらいに洩れて出る。

「すー」と息が早く出るのは、下腹を膨らさず力を入れていないから出るので、下腹をなるべく前方に膨らますようにして息を保っていると、一ぺんに「すー」と息が出ないので解らんくらいに息が出る、それで七分通り息が出て、まだ三分の息が下腹に残っているか、まだ下腹の力が抜けない時分に再び息を吸います。

吸う時にはやはり光り輝く神の力が流れ入ると観じまして「神の無限の生かす力流れ入る…」と前の如く念じてその息をまた下腹に落して、

「満たされている。生かされている。ありがとうございます、ありがとうございます。もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり」

と念じます。また、七分通り息が洩れれば吸います。同じように念じます。繰返します。こう繰返し念じているうちに肉体は分からなくなり、ただ神のいのちが空中に光明燦然たる光を放ちながら浮かんでいるような気持ちになるのであります。


それでは初めから御自分でお念じ下さい。(以上、道場での直接指導の場合の口伝録音)




○ 光明思念(こうみょうしねん)の歌・拍手

 

神想観は普通一回約三十分、ないし四十分、次の光明思念の歌を二回朗誦して二拍手、眼を開いて終わります。


「天照(あまてら)す御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の生命照(いのちいてら)し宇宙静(くにしず)かなり」



光明思念の歌は決してただの呪文でもなければ、伊達に荘厳味を添えるために歌うのでもないのである。「天照す御親の神」というのは天照大神という固有名詞ではなくて「あま」は宇宙で、宇宙を照らし給う御親の神、本源の神様のいのちが宇宙一杯に光明輝いて照らし渡って神慈光の下に平和に、大調和に一つの世界を実現しているーその実現を諦視し、言葉の種子を天降らして、世界平和が実現するように祈るところの荘厳な行事なのである。自己のためのみに祈り、その効果を求めるのは利己主義である。利己主義は結局、神の霊波に波長が合わぬので、却って祈りながらも効果がないのである。世界平和のために同志を集めて祈ることこそ最大の行事である。



ある地方で、何か歌ごえ運動みたいにこの光明思念の歌を一緒に歌う人もありますが、そうではなしに指導者の朗誦に合わせて下記の歌の意味を心内に黙念するのであります。なお正しい拍手の仕方は左(火足)の手を右(水局)よりちょっと前に出して叩き、二回叩き終れば手をもとに戻して、両手掌(たなごころ)を合わせて終るのであります。

アーマーテーラースーーミー オーヤーノーカーミーノミースーマールーノーー
イーノーチーイーテーラーシーークー二ーシーズーカーナーリーーー


注:  youtubeで谷口雅春先生の神想観がありますのでそれを参考にして下さい。
      慣れるまでは先生に合わせて行うといいですね。