生命の実相第九巻
霊界篇第一章
① 差別心より観たる霊界の消息
生命はいずこより来たり、いずこへゆくかは、心霊現象から材料を得て研究することができる。
一つはある人の死の瞬間に起こった精神交感現象または幻影の現象や、生前に約束した事項を死後において果たしたと見える現象や、さらにいっそう客観的な現象としては心霊写真の現象や…を収集して、そのおのおのの場合において十分な調査を行い、
そこにありうべき考え違いや、詐術等を除き去ってのち、純粋に現象を現象としてなんらの偏見なく肯定し、かかる考え違いにも詐術にもあらざる純粋なる現象を数多く集積し、もって現世以外の人間霊魂の生活を肯定せんとする方法である。
この方法は霊魂の死後存続を科学的に立証せんとする多くの心霊学者の採用せるところであるが、これには証拠の豊富ということが有力なる立証の要素となるのである。
たとえばAの死の瞬間にAの幻影が友人Bのところに現われたという現象も、ただ一たび、または数たびかかる現象が起こったというだけでは、この現象は宇宙無限の現象中ありうる偶然の符号だと駆撃(ばくげき)されてもしかたがないであろう。
また実際この幻影が、Aの霊魂の物質化(materize)したものであるという確証がある理由で掴めたにしても、類似の現象を数多くあげえない場合には、Aの霊魂の「死後存続」の理由をもってB、C、D…等、さては人間全体の霊魂の「死後存続」を結論するための材料とはなしえないのである。
この理由によって最も豊富に実例を挙げたのは、先年物故せるフランスの天文学者にしてまた心霊研究家たるフラマリオン氏の三部論作「死とその神秘」である。
この著は、短き相類似せる無数の材料を多数に繰り返して、一定の結論に導き出すべく努力した浩瀚(こうかん)(書物の量の多いこと)な大著であって、研究者が天文学者だけに、事実を事実として公平に列記しているけれども、あまりに多数類似の事実を列記してあるので、本書にそのすべてを紹介することは不適当であり、実例が少なければ権威がないので、一部分の紹介では意義をなさない。
で原著に興味のある人は原著を読んでもらうとして、ここには人間の霊魂の死後存続はこういう科学的方法からも、現代ては信ぜねばならない程度に立証されているということを付言しておくだけにする。
生命の行方の心霊学的の研究の第二の方法は、研究者自身が霊的能力を有して、自己の霊視(clairvoyance)または霊魂遊離の方法によって「霊界」を探見する方法である。
古くはスウェーデンボルグがこの方法によって「霊界」を見ている。近くは、一九三○年ごろ、英国ロンドン心霊大学の名誉学長たりしJ・Hマッケンジィ氏の『幽明の交通』(“Spirit Intercourse”)と、オックスフォード大学出身のワード氏の“Gone West”とである。
前者はわたしの旧著『心霊現象と宗教思想』中にその概略を紹介したことがあるが、後者は浅野和三郎氏の訳で『死後の世界』と題して出版されている。
ともに霊界は七層にわかれているという点において一致しているが、マッケンジィ氏が動物の霊界は別として、人霊の棲む「霊界」の最下層をわれらの住む地上よりも上圏にありとしているに反して、ワード氏は最下層の「霊界」をこの地上の世界よりも下層にありとしている。
かかる場合、冷静なる読者はいずれの霊界記をも信じ難くなるであろう。
元来この研究者自身の「霊魂遊離(れいこんゆうり)」による霊界探見なるものは、主観的価値はともかく、客観的には価値乏しきものなのである。真にその人の霊魂が肉体を遊離して「霊界」を探見したものであるか、唯一種の恍惚状態にいて幻覚を見たものであるかの区別が何人にもつかない。
霊能者が教養ある学者であり迷信に陥るごとき人物でないということは、決して彼が霊視したところの「霊界」が真実であるという証拠にはならない。
かえって彼の教養は、彼が今まで研究した霊界についての学説が脚色されて彼の幻覚に視覚化したのであるかもしれぬという抗議に答えるなんらの弁護ももたないであろう。さればかかる霊界探見記を紹介することも本書においては差し控えることにする。
つづく
谷口雅春著 「生命の實相第九巻」より
*心が肉体の主人公
『人生は心で支配せよ』と云う私の本があるが、"自分の肉体は自分の心で支配せよ"である。何故なら、肉体は物質であり、物質はみずからの力にてその位置や構造を変化することができず、その構造する細胞を健全な姿に置き並べ、その病的構造を健全な構造に組みかえるのは〃心"のハタラキであるからである。
その"心"が物質たる肉体に対する"支配者"たることを自覚せず、その"支配者"たる権利を抛棄(ほうき)して、肉体の病気の物質的原因なるものの前に萎縮して、「こう云う"物質的原因"があるから、このような病気になる」などと、"物質的原因〃を主人公とみとめて、其の前に拝跪(はいき)するようなことになったならば、"心"の萎縮と恐怖とが、その病的観念を肉体細胞に具象化して、ついに本当に病気を構成し、また新たに病気を造ることになるのである。併しこの場合も、結局は"心"が・王人公であって、その病的観念を肉体に反映したにすぎないのである。
*「心」の自主権を恢復(かいふく)せよ
"心"が自已の唯心所現的な全能力を忘れて病気の物質的原因の前に恐怖し萎縮するときは、"心"はその全能力を抛棄し、物質に対する支配権を抛棄して、物質の権威の前に跪(ひざまず)いたことになるのである。本来"自主権"をもつ"心"が、その自主権と物質支配権とを抛棄した結果は、"心"の本来性と矛し、"心"の本来性に対して不調和となる結果、そこに其の反映として不調和の状態を肉体にあらわす結果となるのである。よろしく〝心〝の自主権と、物質に対する支配権とを快復すべし。