⑤愛は刑よりも強し

宗教的光耀後のデーリー(續き)

24頁~30頁


ライフアーは將來に於ける刑務所の宗教ついてこんな説を述べた。それは囚人の宗教的及び倫理的部分に近づいて行かなければならない。教誨の仕事は彼らに内在する宗教性及び倫理性を呼び出して來るのでなければならないのである。教誨師は囚人の中から抜擢して探用せらるべきである。すなはち、彼ら自身が、『教へ」そのものになつてゐる囚人、彼らの愛が神に導かれて、自働的に愛を行ずるやうになつた者から抜擢しなければならい。…等々。

或る時デーリーと、ライフアーとは、イエスの受けた誘惑や受難や神の子としての自覚に就いて語ってゐた。するとライフアーは斯う云つた。
「その外部的事件について知ることは無論結構なことである。併し、その意味の何たるかを知ることは、君に大した功徳をもたらすものではないのである。その意味から何をつくり出すかが、君の傳道の有効さを決定するのである。これは何を意味するかと云ふやうなことの知識は、却って、議論と反對とを引き起こし人々を敵と味方とにわける。君がキリストの體驗と人格との中に生きるならば、證明も辯明も不要であって何らの議論の餘地もないのである。これが君の光である。この光こそ人々を善に導き得るのである。……ところで、君はイエスが弟子の足を洗つたと云ふ事が何を意味するか知つてゐるか。」

「それは謙りを意味すると、君,が僕に教へてくれたではないか。」

「さうだつたけな。さう々。ところで君はその通り謙りを意味すると信じてゐるか。」

「信じてゐるとも!」とデーリーは速述述べた。

「ところでそれが謙りを意味すると知る事が、君を謙抑にするだらうか。」

「しないと思ふね。」

「そこだよ。キリストの事蹟の意義を知ることが問題ではない。キリストの魂を持つために自分を鍛へなければならないのである。キリストの神學を知ることに大努力をする必要はないのである。それはキリスト神學を知る人々を種々雑多に勢立せしめることになる。それはキリストへの注目を却つて散亂せしめることになる。そしてある人の神學は他の人の神學と衝突する。さう云ふ衝突は神學者にまかせて置く事である。それは君の分野ではない。」この最後の言葉がデーリーを打った。ライフアーは語をつづけた。

「神學が發見し得ない力を、そして又發見した力を君の生活體驗の中に生かすのだ。君の人格を變貌せしめる者は、決して知識ではないのである。君は知識の中に體現した靈によって鼓舞せられ新生せしめられるのである。かくの如き知識は君の知性を磨くが、靈は君の魂を磨くのである。魂が磨かれれば、正しい知識はそれに導かれて出て來る。」

ライファーはこんなことを話しながら自分の寝臺の上に長々と寝そべつてゐた。「君はイエスが苦しみによつて浄められたことを讀んだが、それが何を意味するか、知つてゐるか。」と又彼はたづねるのである。「知らない。」「君がそれを知つたとて何にならう。それはおそらく君をして、わしは偉いぞ、こんなことを知ってゐると云ふやうな高慢な氣にならせるだらう。また或る人々は、君は素晴らしい素晴らしい知識をもってゐると驚歎するだらう。またある人人は君を深遠な神秘的事物に關する驚くべき學者と考へるだらう。しかしそれよりも一層好いのは、キリストの受難の意義が何であるか、體驗をもって知ることだ。それは段々と起こって來るだらう。心配するに及ばぬ。それによって君は潔められる。丁度醫者の(糸爰)下剤が腸の中を掃除するやうにだ。ところで君は君の讀んだ行にある『荊の冠』とは何の意味か知ってゐかね。」

「いや。」

「知ってゐたとて君の足しにはならんさ。」とライファーは註釋した。「それは君をひき蛙のやう膨らませるだけさ。或は誰にも讀めんやうな書物を著はさしめるかも知れない。併し君が荊の冠の意義を生活體驗で知るとき、それは君の内に寄るキリストの靈を解放するよ。それは君に法悦を與へ、君を強くする。それこそ却つて計畫なき傳道となるんだ。」

ライファーはこの話をするとき重大問題を取扱つてゐるんだと思はせるやうな調手で、知識の獲得と體驗智とは全然ちがふと云ふことをデーリーにくれぐれも繰返し云ふのだつた
「キリストの奇蹟についての諸問題を知つてもたいした功徳を君には與へない。君の眞の力は體驗としての意味にある。君が生活して行くうちに屹度その恩寵を受けるだらう。」
「如何にすれば好い?」

「毎日を支配するんだ。知識を體驗に飜譯して、經驗を知識に飜譯するんだ。そしてそのどちらをも適當な時、場所に働らかせるんだ。カラにすることは大切だが、つめ込むことはそれほど大切なことではない。吾々は知識を先づ得たならば、それを喜んで吐き出さなければならない。さうすると智慧がその代りに得られる。それは實に單純なことである。最善の傳道は賢者となることである。」

かう云ふかと思ふとラィファーはカラカラ笑つた。そして新聞紙を取上げてそれをサラサラ云はせた。それはもうこの話はこれ位にして置かうと云ふ合圖であつた。ライファーは何時何處で話し始めたら好いかを知つてゐたと同時に何時何處でやめれば好いかと云ふことも知つてゐたのである。「彼は神に支へられ、神に力を輿へられ、神が導いてゐるのである。彼は自分がど>んなになつてゐるかを話すのであつて、それ以上でも以下でもない。彼自身が傳道の言葉なのである。彼は何を知つてゐるかの故に多勢の人々を救ひ得るのではなく、彼は如何にあるかによって多勢の人々を救ひ得るのである。」とデーリーはライファーの事を評してゐるのである。