MCUのマルチバース化が止まらない。
今年初頭には『ワンダヴィジョン』へのエヴァン・ピーターズ登場で視聴者の度肝を抜き、先日公開された『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』予告では旧ソニーシリーズのヴィランが続々登場。
また『ロキ』ではMCU内部でも複雑なメタ構造を展開し始め、『What If..?』でいよいよその極致に達してきた。
おそらく来年の『ドクター・ストレンジ・イン・マルチバース・オブ・マッドネス』では、現時点からは想像もつかない状態に展開しているのではないか。
この「マルチバース」という物語構造、非常に楽しみな一方で問題点もある。
シリーズのメタ化が進めば進むほど、当然ながらそれまでのキャラクター自身の自由意志の問題を扱わざるを得なくなってくるのだ。
彼らの行動はどこまで、彼ら自身の意思が関与していたのか。それとも全てがあらかじめ、より大きな存在によって仕組まれていた展開と受け取るしかないのか。
下手をすればご都合主義的な印象が優先し、これまで積み重ねてきたものが全て無に帰する可能性も孕んでいる。
しかしこの自由意志というテーマ、マルチバースを扱うが故に無理やり引っ張り出されてきたもの、というレベルに留まるものではないように思われる。
というのはここ数年、実は同様のテーマを扱っている作品がMCU以外でも少なからず出てきているのだ。特に秀逸なSF映画で。
個人的な決定打となったのは、クリストファー・ノーラン監督の『TENET』。
この作品において、実時間軸はちょうど中盤で折り返しとなっており、クライマックスとオープニングが同日の出来事となっている。
ということは、映画がスタートした時点で主人公はクライマックス以降も実時間が続いていくこと(=クライマックスの作戦が成功する)が分かっており、分かっていながらも彼らは作劇上のクライマックスに"逆行"していくのだ。
それは主人公の意思とは言い切れないかもしれない。
しかし逆に、それでもその選択をした彼らの強力な意思の表れ、という受け取り方もできる。
そうしたテーマを潜在的に抱える作品が出てきている背景には、現代の強烈な格差社会における無力感、自分の力では抗えない要素があまりにも多いことへの無意識の抵抗なのかもしれない。
『インフィニティ・ウォー』前後では一貫して移民問題、国家というアイデンティティについての批評性を内包させていたMCU作品群。
単なる「サプライズ」では済まされない、自由意志への問いかけを含意したマルチバース展開が今後も続いていくと思われる。
