中津城は黒田家が作って
細川家が城下町を整備
小笠原家があって
享保2年(1717年)に暴れん坊将軍
徳川吉宗から西国の抑えを期待されて
奥平家が藩主となった
幕末まで残って中津からの多くの著名人を出したのは奥平家があったためなのです
中津城
なかなかオシャレな天守閣ですね〜!
「軍配団扇」馬印
軍配団扇は奥平家の家紋です
代々の藩主の鎧も勢ぞろい
奥平家は奥三河の国人(こくじん:地方豪族)で武田信玄に臣従していたが、信玄亡き後、徳川家康の調略により徳川方になった
一躍有名になったのは
天正3年(1575年)
あの長篠の合戦の時(織田・徳川連合軍VS武田)
長篠合戦図屏風
最前線の長篠城の守備隊に命じられ
武田勝頼率いる武田軍15000に対し、守備隊は500
圧倒的不利!!
しかし、200丁の鉄砲があり善戦
ところが、兵糧蔵を焼かれ食べ物も枯渇
仕方がないのでタニシを食べて飢えをしのぐ
奥平たにし祭り
毎年、5月に中津城でその当時のことを思ってたにしを食べる祭りもある
そしてヒーローが生まれる
奥平家は援軍要請のため
岡崎城の家康の元に密使を送る
その密使こそ鳥居強右衛門(とりいすねえもん)
首尾よく岡崎城まで行き
家康に援軍要請の手紙を渡し
織田・徳川連合軍38000が翌日にも
長篠に向かって進軍することを聞き
その朗報を味方に伝えようとしたが
城の対岸有海村で武田の兵隊に捕まるのです
そして、豊川を挟んで城の対岸に磔(はりつけ)にされ
武田軍に「援軍はこない、諦めて城を開け渡せ」
と言えば命を助けると言われるのです
鳥居強右衛門磔図
その時、強右衛門が言ったのが
「城中の者よく聞け!
あと、2、3日で数万の大軍が援軍にくる
それまで持ちこたえよ!!」と言った
もちろん、武田の兵に突き殺されました
城中の兵隊はその言葉で奮い立ち
タニシ食べ食べ織田・徳川連合軍が来るまで持ちこたえた
後は設楽原(しだらがはら)で織田・徳川連合軍が大勝利を納めた
この逸話は
明治時代の尋常小学校の教科書にも乗っていた
近くにはJR鳥居駅として名を残しています
尋常小学校教科書
長篠の合戦の後
長篠城主・奥平貞昌はこの戦功によって
織田信長より偏諱を賜り「信昌」と改名
徳川家康より家康の長女亀姫を嫁にもらう
家康所蔵の名刀『大般若長光』をもらう
鳥居強右衛門は忠臣として後世に名を残し
子孫は奥平家で厚遇された
大般若長光(模造)
↓
奥平信昌だけでなくの重臣12人を一人一人労い
子々孫々まで待遇を保証するお墨付きを与えています
お墨付き
上野小幡3万石から美濃加納10万石までなった
口の中がスッキリ成り上がるのは
↓
たかぼん
中津城 黒田如水編ブログ
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