OSHO の言葉よりーセラピストへ | 気づきに満ちて生きるためのライアー《アトリエロータス@富山》

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432Hzのレミラシ4オクターブ48弦からなるタオライアー

その癒しの波動による変容

ご体験ください!

☆タオ以外の様々な音階のライアー制作の傍ら、グループ展、音浴会やヒーリング体験会など行っています。

FBの prem sheel さんの投稿よりシェアさせていただきます。

この頃、聴くことについて学ぶことが多いのです。

講座をしていても、セッションをしていても、家族と接しているときも、いつも聴くことに気をつけていたいと思うのです。

思うばかりで、なかなか実行が伴わないのですが、それを瞑想にしたいとおもうのです。

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セラピーは
基本的には瞑想と愛だ。
なぜなら愛と瞑想なしには
ヒーリングの可能性はないからだ。

セラピストと患者が二つでないとき。
セラピストが
単にセラピストであるだけでなく、
また患者が
もはや患者ではないとき。

その反面、
セラピストがその人を
治療しようとしないところで、
自分と相手との深い関係性が起こり、
患者がセラピストを
自分自身と分離したものとして
見ることがないとき。

これらの稀なる瞬間に
セラピーが起きる。

セラピストが
自分の知識を忘れてしまい、
患者が自分の病気を
忘れてしまったとき。
そして対話、
二人の存在の対話があるとき、

その瞬間、
二人の間にヒーリングが起こる。

そしてそれが起こったときには、
セラピストは、
自分は神聖なる力、
神聖なるヒーリングの媒介としてのみ
機能したのだということを
いつも知るだろう。

セラピストは患者と同様に
その経験に対して感謝するだろう。
実際のところセラピストは
その経験から
患者と同じくらいに多くのものを得る。

あなたがその人を
患者として治療するとき、
あなたは患者を
まるで機械であるかのように扱う。
ちょうど機械を改良し、
調整しようと試みている職工のように、
再び健康にしようと試みる。

そうなると
セラピストは
頭の中の自分の知識に
引っかかっている専門家だ。
彼はその人を
別の人間としてではなく、
まるで機械であるかのように
その人を助けようとする。

彼は技術的には
専門家かも知れないし、
ノウハウを持っているかも知れないが、
それほど助けにはならない。
なぜなら
この見ることそのものが
破壊的だからだ。
この患者を見ることそのもの、
患者を対象として見ることが
患者の中に抵抗を作り出す。
患者は傷つけられたと感じる。

注意して観察したことがあるかね。
あなたがその人といて
屈辱を感じないような、
自分がまるで対象物として
扱われたと感じることがないような、
その人といて自分に対して
深い尊敬を感じるような、
そして機械としてではなく、
ひとりの人として
待遇されたと感じるような、
そういう医者は
ほんのわずかしかいない。

そしてそれが
セラピストの問題となると、
さらにそのことがあてはまる。

サイコセラピスト(心理療法家)は
自分の知っていること全てを
忘れる必要がある。

その瞬間、
セラピストは愛に、
流れるような愛に
ならなければならない。

その瞬間、
セラピストは相手の人間性を
受け容れなければならない。
相手の主体性を
受け容れなければならない。
相手の人を
物におとしめるべきではない。

さもないと
あなたは最初の最初から、
より偉大なヒーリングの力が
降りてくるための扉を
閉ざしてしまうことになる。
 

セラピストであるということは
この世で最も困難なことのひとつだ。
なぜなら
あなたは助けるために
知らなければならず、
他方で
助けるために知ったことの全てを
忘れなければならないからだ。

あなたは助けるために
多くを知らなければならない。
そして助けるために
その全てを忘れなければならない。
セラピストは
非常に矛盾したことを
しなければならない。

そしてそのときにのみ
セラピーが起こる。
愛が流れ、
セラピストが非常な注意を持って
患者に耳を傾けるとき。
そして患者もまた
自分自身の内なる存在、
自分自身の自己への無意識の語りかけに
耳を傾けようとするとき。
この聴くことが起こるとき、

次第に、
その深く耳を傾けることの中で
二人の人はいなくなる。
二つの両極はあるかもしれないが……

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