ではさっそく、シミルボンのコラムを転載していきたいと思います。

こちらは、宮川サトシさんの大人気エッセイ「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」の映画化記念で募集され、応募したコラムです。


私は祖父が亡くなって3年後の話を綴りました。

2019年3月21日に投稿しています。





ハイビスカスひまわりチューリップガーベラ


「さよなら」を言えなかった祖父へ。


ハイビスカスひまわりチューリップガーベラ


3年前、祖父が亡くなった。父方の祖父である。


……といっても、私は祖父に、数回程度しか会ったことがない。


まだ物心がつかない頃に数回、あとは大学生の頃、突然家を訪ねてきて、一度だけ顔を合わせた記憶がある。


恐らく、私の父親も20代前半で結婚した後は、ほとんど顔を合わせていないはずだ。


私の結婚式も「呼ばなくていい」と言われたし、お葬式でさえも「来なくていい」と告げられた。




その辺りの事情は、あまりに過酷なものだったので、記すことができないのだが、私は祖父の死後、意外な形で彼と関わることになった。



祖父が亡くなってから2年ほどたったころ、父親に「遺品整理を手伝ってほしい」と頼まれたのだ。


なんでも、祖父は生前、輸入業を営んでいたらしい。


住んでいた家には、隅から隅までギッシリ、それこそ片付けに年単位でかかる量の売り物や荷物が残されているのだそうだ。

その頃私は東京で暮らしており、売れないライターである自分には、仕事がほとんどなかった。



「荷物の一部を送るから、東京には質屋もたくさんあるだろうし、適当に調べて売ってきてくれないか」と頼まれたのだ。


しかも、売った分の1割はお小遣いにして良いと言う。


情けないことに「お金……!」と目が輝き、二つ返事で引き受けた。



「血も涙もない」と思われたかもしれない。


だが、自分との思い出が全くない人が亡くなっても、何の感情も抱けないのが実情であった。


祖父がいたから、私はこの世に生まれたのだと理解していても、いつも笑顔で立ち話をしていた近所のおじいちゃんが亡くなった時のほうが、ずっと寂しかった。





だが、質屋に遺品を売りまくる日々を数か月続けると、その感情が少しずつ変わりはじめた。


東京の自宅に届いたのは、段ボール一箱分の郵便切手、ハガキ、テレホンカード、収入印紙。

そして、ヴィトンのポーチに大量のイヴ・サンローランのサングラス。


ロレックスや有名ブランドの時計に、記念硬貨、そして世界中の紙幣や硬貨、指輪や古書もあった。





正直、今までの人生で全く質屋に縁がなかった私は、質屋という存在に恐怖を覚えつつも、その頃ちょうど東京下町の老舗・質屋を舞台にしたマンガ『七つ屋志のぶの宝石匣』(二ノ宮知子)にハマっていたこともあり、「まあ何とかなるでしょ(笑)」と、一人で何箇所もの質屋巡りをする日々をスタートさせた。


結果からいうと、入店した途端に「何しに来たの?」と追い出された場所もあったし、買い叩かれ、騙されたことに後から気づいたこともあった。


だが、商店街で一人で営む小さな質屋さんに足繁く通ううちに、店主のおじさんと仲良くなり、質屋の事情も色々教えてもらうことができた。



例えば、切手は今、マニアが減ったこともあり、プレミア物以外はほとんどお金にならないこと。


「市川海老蔵」や「見返り美人」「月と雁」「中国切手」などでないと、高額の取引ができないことを告げられた。




「じいちゃん……。こんな段ボール一箱もあるのに、じいちゃんの別にプレミア物ないし(※血眼になって探した)普通に売ったら額面以下になるってさ……。仰々しい入れ物に入った台湾切手も、各地で手に入れた(と思われる)限定切手も……。残念やなあ……」

と思いながら、私は切手を売った。




続いて、大量にあったイヴ・サンローランのサングラス。

デザインが古めかしい品なのだが、どうやら本物ではあるらしい。(昔のものにほとんど贋物はないと言われたが本当なのだろうか?)


だが、「作りが雑」「今の人に売れるかどうかで価値が決まるので、これは高くて1000円かな~」と言われ、ほぼお金にならなかった。


ヴィトンのポーチに至っては、価値が全くなく、値段がつかない。


古書を売りに古書店も回ったが、やたら重いだけで1000円程にしかならなかった。



複数の質屋を訪ねたが、大体同じことを言われたので、事実なのだろう。


唯一、おじさんが目を輝かせたのがロレックスの時計で「ロレはね、古くても高いよ。あとオメガもね。壊れていても価値があるんだよね。ロレ、本当に素敵だよね~~!」と、ロレックスのことをなぜか愛しそうに「ロレ」と呼ぶ店主から、私は「ロレ」についての講釈を延々と聞いたのだが、ほとんど忘れてしまった。




結果、売り物のほとんどは予想以上にお金にならず、正直「じいちゃんこんなガラクタばっかり大量に集めてどうするつもりやったんや」と呆然とする日々が続いたのだが、よく考えてみれば、これらは元々自分のものではない。




私は反省しながら、祖父はもしかしたら、切手収集を通して、友人と繋がっていたのかもしれないし、誰かに見せびらかして自慢していたこともあったのかもしれないな……。


今の時代では売れなかったものの、昔はサングラスもヴィトンのポーチも、欲しいお客さんがいたのかもしれない……と考えもした。



また、一番お金になったのが、世界中の海外紙幣であった。(普通に外貨両替サービスを利用した。)

これらは銀行に持って行くと一部「偽札」も発見され、ビビったりもしたのだが、ヨーロッパやアジア各国、イスラエルの紙幣まであるのを見て、




「孫である私は飛行機が苦手で、国内旅行ですらほとんど行かないのに……。こんなにたくさんの国を、祖父は一体誰と回ったのだろうか? そこで見た景色が美しかったことや、人との交流の温かさを、誰かに話すことはできたのだろうか……?」


と心配になった。


遺品を持って質屋を巡るたびに、「祖父はどんな思いでこれを手にしたのか」を考えるようになっている自分がいたのである。



祖父は、祖母とも別居しており、死ぬ時も一人きりだった。


私は昔一度だけ、ただ近況だけを書いた手紙を送ったことがあるのだが、返事は来なかった。






宮川サトシさんの『母を失くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』に登場するお母さんは、息子はじめ、たくさんの人が亡くなったことを悲しんでいた。


私も本書を読みながら泣いてしまったし、実際、自分の母親が亡くなったら、寂しすぎて大いに取り乱すと思う。


家族の誰が亡くなってもすごく悲しいのに、祖父が亡くなった時は何の感情も抱くことができなかった。



祖父の遺品は、お金にならないものも多かったが、それに付随している思い出は、きっと金銭では変えられないほど温かく尊いものも、恐らく一つはあるはずだ。

きっとあるだろう。というか、あってくれないと困る。

だってそんなの、あまりに悲しいではないか。


どうしてだ。どうして遺品整理の段階で「物を通して」しか祖父のことを色々想像することしかできないのだろう……。

本当の正解を、本人の口から一度も聞くことが叶わなかったのだろう……。

それがただ、虚しかった。

家族が皆、仲が良いわけではないことや、世の中には複雑な事情があることも、頭ではわかっているし、多少は経験もしている。


でも、一部あえて残した祖父の切手コレクションを見る度に思うのだ。

私はできれば、私の遺品を通して、周りの人たちがあれこれ楽しく思い出話をしてくれるような人生を送りたい。

高額なものは残せないに決まっているし、傲慢かもしれない。それに私は、子供もいない。

でも、でも。


……どうしたって人と温かな関係で繋がっていたいと強く感じたのだ。


祖父に「ありがとう。さよなら」が言えなかった事実は、心の中でぽっかり穴が空いたように残っている。

「寂しい」という感情ですら抱けないのは、あまりにやるせなく、感情のやり場がない。

おじいちゃん。遺品整理を頼まれた時「お小遣い……!」って思ってごめん。


でもけっこう、辛い作業だったよ。だってこの遺品は、絶対におじいちゃんが何かを思って手にしたに違いないのだもの。


もし生まれ変わってまたこの世に来て、私を見つけたら(そんな早く生まれ変わらないかな……)飛行機に乗れない私に、世界中を旅行した話を聞かせてほしいです。





真顔真顔真顔真顔


【※現在36歳になった私から突っ込み※】


祖父はとても短気でキレやすい人だったらしいですが、今、その血を一番受け継いでいるのは、私ではないか…と思うことがあります( ̄▽ ̄;)


もう時期私も2児の母になるので、子供たちや周りの人に少しは愛されるよう、誠実に謙虚に生きたいものです。


おじいちゃんの切手コレクション、まだ少し持っています。


何を考え、どう生きたのか、何が好きだったのか、少しは知りたかったなと今でも思います。









さゆ