Sayseiの子育て日記(再掲) 第100回(最終回) 未来へ
第100回 未来へ
長男はいま私たちのところから遠く離れた、周囲にはあまりなにもない、大学の附置研究所で、研究にいそしんで・・・いるはずです(笑)。3年間は科研費か何かのいいやつがもらえて、生計も完全に自立し、私の3倍近い研究費をもらっています。それを言うと、「何倍も研究してるから、当然」と言われました。 はい、一言もありません(笑)。
まだ研究者としては小さな卵にすぎないでしょうが、若さを考えればこれからです。直接お話ししたことはないけれど、いい指導者にめぐまれたようで、彼が学会発表だとか、海外視察だとかいうのを、傍で見ていると、こいつに色々な経験をさせて、研究者として一人前になるように育ててやろうという指導者のさりげない配慮が感じられて、ありがたいことだと思います。
単調な繰り返しの実験を何百回何千回何万回と繰り返して一つの真理を見出せるかどうかという気の遠くなるような、地味で忍耐力の要る仕事は、私のような堪え性のない気移り人間にはできなかったもので、きっと彼の持久力は母親か私の父から受け継いだ美徳なのでしょう。
そんな日々の中で、美術展に行ったり、映画を見たり、フランス料理を食べに行ったり、ときには海外から東京にしかこない公演をみにいったりという楽しみも味わい、こころやすらぐ時が持てているらしいのは、親としてもとても嬉しいことです。
いまごろは、大晦日に送った「かつら」のおせちに舌鼓を打っているでしょうか。
*
次男夫婦とはこれから、車で一緒に祖母の家にいき、また近くにある祖父、それに私の系統の祖父母の墓参りをして、叔父たちとも合流して夕食をともにする予定です。
彼らはおなじ大学の友人どうしで、互いに映画をつくる中で、卒業間際に親しくなって、今年結婚しました。「授かり婚」で、この1月末には、私たち夫婦に初孫が生まれることになります。
一面からは映画監督、反対側から見ればフリーターという次男ですが、ぶらぶら遊んでいるわけではなく、制作グループを立ち上げた友人たちと、互いの映画づくりに協力しあい、忙しく働いています。
過日短い期間の撮影を終えた友人が監督の作品は、ある都市の自治体の支援を受けて補助金を貰っているため、完成までの期間が限られているらしく、音響を担当した次男も、自分の撮った映画の編集をあとまわしにして、元旦からもう友人の映画の音づくりの仕事にかかっています。
経済的にまだこれからで、作品としてもまだまだどうなるか分からない、未熟な段階であるとしても、私が映画作りの渦中にいて思ったことは、20人も30 人ものスタッフやキャストの、ほとんどボランタリーなこれだけの全力投球のエネルギーを監督というのは最終的に一人で、全身で受け止めなければならない。それだけでも大変なことだ、ということ。そして、彼が曲がりなりにもそれをやりきっている、ということ。そう、その調子だよ。このまま沢山の人から学び、そのエネルギーを吸収しながら大きくなっていけば、きっと志を遂げる日がくるだろう。そう信じることができました。
そして、母親が彼の映画づくりのケータリングを要請されるなど、普通ならもうどこかへ行ってしまって関わりのうすくなる時期なのに、近くにいて彼の仕事の中で役割を与えられることに、彼女は本当に幸せを感じていたようです。
*
長男が経済的にも自立し、仕事に打ち込み、次男が仕事に打ち込み、同時に結婚し、孫ができる、そうなってみると、ほんとうに私たち夫婦は「おれたちの役割も終わったなぁ」というのが実感です。もう何も心配することはない。
私がこんな「思い出し日記」など書き出したのも、そんな気持ちがあって、ひとつの区切りとして書き残しておこう、と思ったからです。
振り返ればきっと私たち親のやってきたことには、おかしなところ、不適切なところ、たくさんあったに違いありません。でもそんなに後悔はない。人間というのは本当に柔軟性のある、適応性のあるものですから、親が少々頼りなくても、子はちゃんと自然が育ててくれる。そんな気がします。
また、いまどきの世の中ですから、どんな怖いことに出会うか、心配すればきりがないほどです。だからといって、親が手を離さなければ、子供の未来はない。
そんなとき、義母が昔言った「子供はお地蔵さんに守ってもらう」という言葉がいつも私の胸を去来していたものです。私には宗教も信仰もありませんが、子供はお地蔵さんに守ってもらうしかない、と思えるときがあるものです。祈るしかないときが。いや、子育てというのは、ほとんど祈りの別名なのかもしれません。
きわめて少数の読者のみなさま、100回の読みにくい雑文によくつきあってくださいました。本当にありがとうございました。たとえ一人でも二人でも、読んでくださるかもしれない、という意識が、私をなんとかひっぱってきて、約束の100回を終えることができました。心からお礼申し上げます。
このあとは少しお休みをさせていただいて、新たに何かを書き続けていきたいと思います。ひょっとすると、それは、リアルタイムの「孫育て日記」になるかも(笑)。
ではみなさまのご健康とお幸せをお祈り申し上げます。
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(追記)
ここに再掲してきた100回の「子育て日記」は、最初にこのブログに書いたとき、すでに子育てのリアルタイムからは四半世紀ほどたっていて、思いでの中の子育てを辿りなおす「思い出し日記」だったのですが、それから現在まで、さらにざっと20年ほどたっているので、二人の息子たちも既に40代前半の中年の域に入る年齢になり、それぞれ研究者、映画&音楽分野のクリエイターという職業人として、日々精進し、次男の長女である孫もすでに高校最後の学年を迎えるところまで成長しました。幸い私たち夫婦も身体はもうボロボロですが、なんとか日常生活を自立的に過ごせる程度には「元気」に日々のくらしを楽しんでいます。もう親としての役割はとうに終えていて思い残すこともないので、あとは残された日々を、一日一日大切に味わいながら、私の場合は、読んだり書いたり、好きなことをして過ごしながら、お迎えの来る日までおだやかに過ごしていければ、といったところです。
今回こんな昔書いた記事を再掲したのは、いわゆる終活の一環として、自分が書いて来たものをできるだけ集約して、他の人に読んでいただくというより、自分自身がいつでも思い出し読みができる便利な形にしておきたい、という考えで、ホームページに集約してきた様々なジャンルの書き物の中の一つとして、このブログ記事も再掲して、リンクを張っておきたいと考えたからです。少なくとも私たち夫婦にとって、ここに書いた子育ての期間は、いろいろ大変なこともあったけれど、いま振り返れば生涯の至福の時だったな、と思います。
これを読んで下さった方の中に、いま子育て中のかたやこれからというかたがいらっしゃれば、いろいろ不安もあるでしょうけれど、どうか勇気をもって、せいいっぱいの愛情を注いでお子さんを見守り育ててあげてください。それはお子さんにとってはむろんのこと、あなたご自身にとっても、将来ふりかえれば、生涯の至福の時間となるはずです。ではみなさまごきげんよう。お元気でお過ごしください。
Sayseiの子育て日記(再掲) 第99回 祖父母のこと
第99回 祖父母のこと
限りなく少数の読者のみなさま(笑)、新年あけましておめでとうございます♪
昨年のうちに連載を終えようとだいぶ無理をしたのですけれど、結局大掃除をして疲れてしまって、のんべんだらりと「紅白」など見ていたので(笑)、書き損ねて、新年に持ち越してしまいました。
息子たちの祖父母4人のうち、いまも存命なのは80歳になる母方の祖母だけです。そのつれあいである母方の祖父、つまり私の義父は、58歳の働き盛りで 癌で亡くなりました。田舎者の私とは対照的な、とてもダンディな人でした。若いころ、山に囲まれた地方の小さな町に住んで、そのころ創業した小さな会社の 創設に参加し、戦後ずっと右肩上がりの成長をつづけてきた企業で、専務にまでなったのですが、会社の火災の折に総務担当重役として近隣との補償交渉にあたり、心身に大きなストレスを受けたのが原因としか思えない形で癌を発症し、1年後に亡くなりました。
長男はやっと2歳になろうとするころ、次男はまだ母親のおなかのなかでした。彼は長男が初孫だったので、とても誕生を喜び、可愛がってくれました。もちろん長男にも記憶はないでしょうが、一緒に車で病院へ連れて行き、見舞い、別れ際に「チュー」をして祖父を喜ばせたものです。彼は祖母や母親がそう呼んだ からでしょうが、この祖父のことを「痛い痛いじいちゃん」と呼んでいました。一度回復して臓器を切除したものの、大動脈に張り付いた癌腫をとりきれず、そのままふさいで死を待つしかなかったのですが、最後は何本ものチューブを体にさし、癌に蝕まれて溶解していく内臓を排出するかのように、濁った濃い液状のものがバケツに絶え間なく溜まり、麻酔をかけても、なお痛く苦しい日が続きました。痛い、苦しいと言わない我慢強い人が、無垢な孫の顔を見て、おじいちゃん、痛い痛いわ、とむしろほっとするように言ったものでした。
この時期に次男は生まれようとしており、その体重のせいもあって、母親が若いときからの持病であった腰痛を再発し、その治療も妊婦ゆえままならず、激痛に寝ても起きてもいられず呻く毎日で、死に臨む父親のことも重なって、私のパートナーにとっては最悪の日々でした。
腰痛のほうは幸い柔道の整骨から整体医として開業していた若い名医のところへ通い、腰には触らず脚を押すだけでみごとに痛みをとめてもらったおかげで、 なんとか次男の誕生までことなきを得ました。一時は仕事から帰ると毎日のようにその遠方の医者まで、軽自動車に長男と身重のパートナーをのせて通い、 2~3時間は待たされて、待合室や病院の外を散歩したりしながら長男の相手をしつつ治療の終わるまで待ち、たいてい夜の10時、11時になって帰ってくるような日々がつづきました。なんとなく尋常でない状況を察してか、長男が聞き分けがよく、ずいぶん助かりました。
次男は祖父の死後1ヶ月半ほどで生まれてきました。母親の実に厳しい環境の中で生まれてきたわけですが、小さいけれど元気でやんちゃな子供に育ってくれて、父親を亡くした母を兄とともに慰めてくれる不可欠な存在になりました。
父方の祖父母、つまり私の父母は、4年ほど前に、相次いで間質性肺炎という肺の病でなくなりました。彼らにとって、私が一人っ子のため、孫は二人だけだったので、とても可愛がってその成長を楽しみにしていました。
そして、十分にそれを見届けて逝きました。祖父は83歳、祖母は80歳でした。祖父は孫に学資保険をかけて大学にはいるときの足しに、と積み立ててくれました。それは大学へはいったら、少しまとまった金を渡して、自分たちの好きなように何かをしていくための資金に、という私の前々からの考えを、この祖父の残してくれた学資保険のおかげで実行することができました。
祖父母がなくなるときは、もう長男は研究所の院生となって地方へ行き、次男も学生ではあるけれど映画をつくるコースに入って、将来を見定めていたので、 祖父母は安心していました。なくなる少し前に祖母の病床を訪れた次男に、祖母は次男が映画をやっていることを喜び、自分が物書きになりたかったこともあっ て、脚本を書くことをすすめていたようです。次男が「おばあちゃんの血をひいているから書けると思う」と自信をもって答えていたのが記憶に残っています。
また、「失敗してもいいから冒険して」と映画のことを祖母が言うと、「失敗でも成功でも、好きなことをしているから続けられるから、大丈夫」と答えていたものでした。
祖母、つまり私の母は死ぬ前はだいぶ苦しみました。最後は誰も見ていないと、夜中に暴れて人工呼吸器の管を抜いてしまうので、病院側では危険だからと手をロープでベッドにしばりつけざるをえないときもありました。できればそんなことをしたくなかったので、できるかぎり遅くまで傍らにつきそい、ある時期らはつききりで、病室の狭い椅子に横たわって泊り込み、朝起きるとそのまま職場へ行くというふうなことをしていました。さすがに体がぼろぼろになってきます。そんなとき、長男が帰って来て、私に代わって一日でも二日でも泊まってくれると、ずいぶん体が回復して楽になりました。
祖父、つまり私の父は入院直前、つまり死の1ヶ月前まで、好きなものを食べ、好きなように出歩いていました。医者からはとめられていた食事も平気で食べていたようですし、私たちにも禁食については何も言いませんでした。そして、ある日、もう毎朝の散歩にもいけないほどしんどい、と突然電話をかけてきて、驚いて病院へつれていくと、即入院で、もうそのときには腎臓はぼろぼろ、糖尿で、間質性肺炎で、肺繊維症も進んでいました。二度とベッドから離れられず、日に日に弱って、最後は(母の苦しみも知っていたので)人工呼吸器もつけずに入院して1ヶ月ほどで亡くなってしまいました。
どちらも私は見届けることができました。息子たちも私のパートナーもずっと見守ってくれて、最後の3年間は私たちとすぐそばで生活をして、一緒に食事をしたり、毎日顔をあわせ、美しい自然の中で過して、幸せだったのではないかと思います。
母方の唯一のこってくれている祖母はいまも元気で、よくわが家を訪ねてくれます。でも一番彼女が喜ぶのは、もちろん孫と一緒に食事をしたりして、彼らの 話をきき、元気な、日に日に逞しくオトナになっていく彼らの表情を間近に確かめることに違いありません。この祖母にもずいぶん息子たちは世話になりまし た。長男は生まれたばかりのとき、この祖母の家で母親のかわりにお風呂に入れてもらったり、忙しい私のかわりに遊んでもらったり、さんざん世話になりまし た。
次男は亡くなった祖父母が住んでいた家に住み、仏壇を守ってくれていました。先日この家が映画撮影の現場になったのを機に、仏壇をわが家へ移転しましたが、祖父母も孫が自分たちの住んだ家に住み、大勢の若者たちが出入りして仕事をするのを見て喜んでいることでしょう。祖母は12人の兄弟姉妹のうちに育ったので、賑やかなのが大好きでしたから。
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(追記:この記事を書いた当時元気だった、兄弟の母方の祖母、つまり私の連れ合いの実母も、4年ほど前に90代半ばまで生きて亡くなりました。彼女は早くに連れ合いを亡くす不幸に見舞われましたが、自身は曾孫(私の次男の長女)と語り合うことができるまで長生きして天寿を全うすることができたと言っていいでしょう。2023-4-12記)
Sayseiの子育て日記(再掲) 第98回 迷い
第98回 迷い
長男が大学を卒業する直前のことです。「1年休ませてほしい」と言うのです。どういうことだ?「いまやっていることが、本当に自分がやりたいことなのかどうか、分からない。1年じっくり考えてみたいんだ。」
あぁ、来るべきものが来たな、と思いました。こういう形で来るところまでは予想してなかったけれど、なんとなく彼の場合、そのままではいくまい。どこかでこれに似たことがくるだろう、という予感はあったからです。
以前に、私が次男のことはそう心配していないが、長男のほうが心配です、と言ったとき、家族ぐるみの知人などが、意外なことを聞くという反応を示されたことを書きました。そのとき、次男は自分の進むべき道がはっきり見えた。というより、もうほかに選択肢がない、というところまで自分を追い詰めた。あとは走るだけだ。しかし、長男のほうは、まだ見えていない。色々な好奇心も可能性もある。自分の資質と能力を見定めることはもっと先になるだろう。へたをすると、道に迷ってあらぬかたへ行ってしまうことだって有り得る。・・・そんなことも書きました。
だから、「想定内」とはいえないけれど(笑)、予感の範囲ではありました。
彼がこのまま・・・というのは、大学の付置研究所で大学院生として研究生活に入ることを指しています。彼は、前に書いたように、理科系にでも文科系にでも進める学部に入学したのですが、結局理学系の生理学的な脳・神経系のことを研究しているゼミに入り、卒業研究では遠隔地にある付置研究所の協力を得て、視覚のことを調べていたようです。
それで、大学院に進むときに、いま属しているゼミの生理学的な脳・神経系の研究室に入ってやっていくのか、それとも大学本部を離れて付置研究所に属して、心理学的な実験をやっていくのか、という選択肢がありました。
ただ、「1年間休ませてほしい」という言い方で彼が言った迷いというのが、このどちらへ進むのか、という迷いのようには私には思えませんでした。それ だったら、彼もそう明言したでしょう。どちらにしたって、私たちは分かるわけはないし、彼が口にしたところで、われわれが口を挟むこともなかったでしょうから。
しかし、私が、じゃいまやりたいことのほかに何かやりたい、と迷っていることがあるのか、と尋ねると、彼はあるようなニュアンスで答えながら、はっきりしたものではない、というような答え方で、それがどんなことなのかを明言しませんでした。まるで雲をつかむような話で、輪郭もなにも示さないのです。
私は、それはダメだ、と言いました。たぶん彼が思春期以降自分でものを考えるようになってから、私が出したはじめてのダメ出しだったと思いますし、それ以後もないから、最初で最後の「ノー」だったと思います。
経済的には彼はほんとうに家計を助けるような学校課程ばかり通ってきてくれたし、予備校も無料だったし、自宅から通学していたし、全然問題は無かったのです。しかし、その空白の一年間が、彼自身にとって危険なものであることを、父親としての私は直観していました。
「考えることは歩きながらできる。いま立ち止まったら、もとのコースに戻れるかどうかは分からないよ。そして、1年間たっても、やっぱりおまえはいまと同じように迷っていると思う。考えたい、といって立ち止まって考えても、何も変わりはしないよ。それより、いま仮にでもこうと決めた道を、せめて修士の2 年間だけでも、必死で走り抜けてごらん。走りながら考えればいい。それで、2年たって、やっぱりダメだと思ったら、それから変わってもいい。でもいまはまだ、なにも始めていないんだ。やってみなきゃ分からないし、まして1年間立ち止まっていたって、なにも分かりゃしない。」
私はかなり必死で説得にかかっていたと思います。彼が自分のようにただの風来坊になってしまうことを怖れたからかもしません。私も彼とちょうど同じ頃に、自分が理学部で生物学の研究者としての一生を思い描いて、自分にはできない、と感じ、そこからいわば生涯の放浪(笑)が始まりました。卒業したものの、仲間のように大学院を受験さえせず、学士入学で文学部の哲学に横滑りして、まさに「1年間考えた」(笑)のです。でも何も変わらない。ただ、時代が今とは異なり、大学を出てしまうのが人より遅れたために、ちょうど学園闘争の時期にぶつかり、自分の個人的な心情をうまく大学内外の状況に重ね合わせることで、 自分の位置を確かめ、強引に意味づけながら歩けたという点で、自己救済できた面があったのだと思います。
しかし、いまの時代はそうではない。いったん踏み外せば、まったく他者にとっては無意味な個人的な踏み外しにすぎず、遅れてひとのあとを走るか、そのままドロップアウトしてあらぬかたへ行ってしまうか、そうなる恐れがずっと昔よりも強いと思います。
「いま一服して、さあやっぱりもともと考えていたとおり、研究に邁進するぞ、と思っても、お前が一服している間に、友人や世界中の同じ年頃の若者たちが志をもって、そのまま全力疾走しているんだよ。学問の世界も昔のようにのんびりしたものじゃないだろう。一刻も惜しんで研究している若者は沢山いる。1年休んで、そこへ本当に戻れるだろうか?それは大変なことだと思うよ。」
だいたいのところ躓きなく来て、いわば恵まれた環境でケーブルカーにでも乗っているものには、それを降りたときに、歩いて険しい山を登ることがどれほど大変なことかは実感としてなかなか分からないものです。ちょっと1年間休むくらい、と思っても、それが思わぬ落し穴になることは十分考えられます。
私の説得に彼が納得したかどうかは分かりません。彼が、どうしても、と言えば、私たちは結局は折れたかもしれません。でも、彼は、そのときすぐには結論を出さなかったけれど、後日、やっぱりいいわ、と自分の提案を取り下げて、付置研究所へ進みました。そこで指導者にもめぐまれ、研究とともに色々な経験を深める機会を与えられながら2年間を過し、さらに彼らしい努力とおそらくは運にもめぐまれて奨学金ももらって博士課程に進み、いまは研究生活はもちろん、生活的(経済的に)にも、世帯としても完全に自立して、元気で忙しい研究生活を送っています。
彼の内心でくすぶっていただろう「もう一つの生きかた」(?)への思いが、どこまで尾をひいたのか、いまもくすぶっているのか、どこかで吹っ切ったのか、その後この話をしたことがないので、分かりません。
また、彼のそのもう一つの選択肢というのが、いったいどんなことだったのか、彼はついに明かさなかったので、いまもって分かりません。
ただ、私には、直観的に、それが単に生理学的な脳・神経系の研究の道か、実験心理学的な研究か、などという学問の分野間の選択についての迷いだったようには思っていません。むしろ、普通の人が聞けば突拍子もない、と思うだろうような、まったく別の生きかただったのではないか、と思っています。
たとえば、小説を書きたいとか、詩を書いていきたい、とか、いやもっと私たちが驚くような何かがあったかもしれません。親の私がいうと純然たる親馬鹿でしかないでしょうが、彼には文才もある。次男のいうように情緒過多かもしれないけれど、幼いころから情緒豊かで、努力家で、きまじめにみえてユーモアの感覚もある。ロマンチストだけれど、単なる夢想家の他愛なさを自分できちんと批評できる頭のよさもある。文章には独特のリズム感があって、学者のジャーゴンだらけの客観的な文章だけ書かせておくのはもったいない、という思いもある。昔から作家修行に言うように、毎日何十枚も書いて、行李一杯になるほどの原稿が書けるなら、もの書きにもなれたかもしれません。最近は作家もビジュアル系だから(笑)、昔からジャニーズ系と言われて、いまでも次男のパートナーの妹の女子高生が「メチャかっこいい!」と言ってくれるスタイルとお面をしているのだから、20歳前後で売り出していたら売れたかもしれない(笑)。
けれども、それはとてもリスクの大きい選択だったでしょう。かりに彼がそんなことを夢想していたとしても、です。私も大学4年のときだけではなく、実は高校3年生のとき、大学へ行こうか、大学へ行かずに思い切って作家修行をしようか、と迷ったことがあります。結局進学校にいたままに、大学へ行ったのですが、わが家の人間は、ときにそういう突拍子もないことを考えるものらしい(笑)。
或いはそれは、目の前の未知に対する一種の逃避願望なのかもしれません。私は高校では逃避できなかったけれど、大学卒業のときに逃避して、そのまま40年近く逃避しつづけている(笑)。長男がそうならなくて(いまのところ)幸いだったと思います。
でも人の人生に、たとえ息子であっても、ほんの少しでも影響を与えるというのは、とてもコワイことです。私も内心では、まだ分からない。本当にあれでよかったのか、あの「ノー」でよかったのかな、と。もちろん、いまはこのまま、自分の本当に興味の持てるテーマをみつけながら研究者として大きくなっていってほしいと願っていますが・・・。
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次は次男です。中学3年くらいのときに、一度人生を決するような相談があったことは前に書きました。
2度目は彼がやはり大学を卒業する直前のことです。「卒業してから、もう一度音楽の学校へ入りなおしたいんだ」と言い出したのです。
彼に対しても、私はたぶん彼が物心ついてから、はじめての「ノー」を言いました。これも最初で(多分)最後の「ノー」です。
なぜか。彼は卒業したら、友人3人と映画をつくっていきたい、と製作会社を立ち上げようとしていたのです。もちろん無名の学生あがりのことですから、それで食っていくことはできません。みんなアルバイトをしたり、親の支援を受けたりしながら、歯をくいしばってでも映画をつくっていこう、というはずでした。
卒業制作でそれぞれ1本ないし2本つくっていたので、みんなそれをこれから不特定多数の世間の人に見てもらうために、色々な映画祭やコンペに出品して評価を求め、打って出るべきときでした。そんなときに、なぜ立ち止まるのか。なぜまた学習なのか。
彼は、自分で作曲も演奏もして、CDなども自主制作していました。けれども、きちんと音楽教育を受けたわけではないので、そういう教育を受けて音楽も本格的にやってみたいのだ、ということでした。
理由は分からなくはなかったけれど、私はこのときも、直観的にこれはダメだ、と思いました。彼の姿勢がこれから、自分がいままで4年間で手に入れたもので全力をもって、映像で世の中へ打って出る、という積極的なものでないのが、一番気がかりでした。音楽をやることは悪くない。音楽の技能や知識を学ぶのもそれ自体はいい。でも、人生にはここで打って出ないでどうする?という時がある。まさに今彼はそういう時と場所に立っていた。なのに、なぜまだ学ぶだって?
私は、もういくら学んでも同じだよ、と言いました。いまは打って出るときだ。モラトリアムしたいという気持ちは分からなくはないが、今はそのときじゃない。私の勤務する大学の学生でも映画が撮りたいという人は何人もある。でも技術を持っていない。CGやビデオは学べるけれど、おまえの学校のように映画専門にフィルムで、企画から撮影、録音、照明、大道具や小道具のことから焼付けや編集まで経験して、たくさんの貴重なフィルムを見たり、自分で知識と技能を身につけることは望んでもできやしない。お前たちが彼女たちにとってどんなに羨ましく思えるか、分かっているのか?自分が4年間一所懸命に身につけたことを軽くみてはいけない。その価値をしっかり認識して、それを武器にしていまは打って出るときだ。どんどん作っていくべきときだ。
映画はごく一部の特殊なものを除けば一人ではつくれない。せっかくいい仲間もいる。いま勢いで打って出なければ、チャンスが二度めぐってくるかどうかは分からない。貧乏してもいまならアルバイトをしたり、われわれが助けて、なんとか映画が作れる。こっちだっていつまでも仕事があるとは限らないのだから、 数年先にはもう助けてやれるかどうかも分からない。幸運の女神は後ろ髪がない、っていうよ。
たぶん、そんなことを言って、ダメ出しをした。彼も、映画を捨てるつもりはない、と言っていたけれど、その姿勢は少し消極的にみえたのです。しかし、私たちのダメ出しと、彼の親友もまた、いまは打って出るときだという私たちの言葉に同意してうなずいてくれたせいか、次男は自分のプランをあきらめて、その後は自分と仲間の映画づくりと、その上映の機会を広げるための仕事に没頭していきました。
これも、私は内心深くでは、本当にあれでよかったのかな、とずっと思っています。もちろん今でもベターな選択だったとは思っているけれど、選択や助言にはいつもその種の迷いと不安がつきまとうものだと思います。
次男は友人たちと4人で映画の製作グループを立ち上げ、自主制作映画を協力して作り、大阪のなんばのクラブなどで音楽と映像のコラボレーションによるライブ活動をし、CDやDVDを出し、いまも活動をつづけています。今過ぎたばかりの2005年には、2本目の長編の監督作品の撮影を終えて編集にかかるところです。今度はすてきな女優さんをみつけ、たくさんのボランティアスタッフにめぐまれて、ドラマ性のある作品を撮っているようなので、私も期待している ところです。
(2015年8月追記)
この記事で書いた彼が監督した作品「Ghost of Yesterday」は、その後ぴあのPFFアワード2008年で審査員特別賞、企画賞(TBS賞)をダブル受賞し、なんとか新人の登竜門を潜って、映画監督としての一歩を踏み出しました。いまは「関西ゼロ年代」と呼ばれる若手映像作家の一人として活動しています。
(2023年4月追記)
次男に関しては、京都・木屋町通りに面した旧小学校跡地で開催されたシネマカレッジ京都・俳優コース「制作実践クラス」の講座の講師をしていたとき、その受講生たちと、講座の修了作品として制作した監督作品『さよならも出来ない』が、第17回TAMA NEW WAVEのコンペティション部門でグランプリ&ベスト女優賞(土手理恵子さん)を受賞したことも付け加えておきたいと思います。彼は監督としてだけではなく、とりわけ映画の音響関係の仕事で様々なほかの監督の映画作りに関わっているようです。黒沢清、青山真治以降の世代で最も期待がもてる(と私が考えている)濱口竜介監督の5時間を超える大作「ハッピーアワー」では整音を担当し、その件で雑誌『ユリイカ』(2018年9月号)の濱口竜介監督特集号に三浦哲哉氏のインタビュー記事を載せてもらっていました。作曲や演奏も続けているようで、『星屑の国』というCDを出しています。とにかく自分の好きなことを一所懸命やっている姿が見られることは、親としては大変うれしく思っています。
長男のほうも研究者として独り立ちして、海外の専門誌にもたびたび論文が掲載されたり、ささやかなものと謙遜はしているようですが、パートナー経由で聴くところでは研究で受賞したりもしているようで、学界で客観的に評価される仕事を着実に積み重ねているようです。
もう二人とも中年の域に達しているから、いまさら親がどうこうという存在ではないけれど、いつまでたっても親は子供たちのありようが気になるものですが、とにかく二人とも自分の道を見つけて、それぞれ一所懸命努力してその道を走り続けている、あとは健康で無事故平穏無事に、楽しんで生涯を過ごしてくれれば何も言うことはないし、もう思い残すこともないなぁ、といったところです。そろそろこのブログも100回の予定通りの終了回を迎えるので、ちょっとゆるくなって今の感慨など書いてみました。
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Sayseiの子育て日記(再掲) 第97回 恋する母
第97回 恋する母
恋する母、と言っても、母親が不倫してるわけではありません。
母親にとって、息子というのは永遠の恋人みたいなものだなぁ、と思うので、息子たちとの関係で、母親をそう呼んでみたのです。
前にも書いたように、母親の決定的な役割は幼児期で終わっていると思います。あとはまあ、少し距離をおいて見守るというのがベストで、手が離れたんだからってどこかへ勝手に行ってしまうのも良くないと思うけれど、逆にいつまでも距離がとれないのは百害あって一利なしだと思われます。
もう母親の手を離れた息子に対して、決定的な役割を終えた母親はどんなふうに接していたか、というと、わが家の場合ですが、いつか嫌われるんじゃないか、といつもハラハラしている恋人ですね。(笑)
惚れた弱み、ってやつです。どんなひどいことを言われても、どんなにつれない仕打ちを受けても、悲しんだり、傷ついたりはするけれど、相手を憎んだり、みずから決意して別れを告げることができない。
ときに爆発することもあるけれど、その怒りも相手にようぶつけなくて、だいたい夫の私のほうにぶつけてくる(笑)。迷惑な話ですが、まぁ、パートナーというのはそういう役回りなのでしょう。あまり頻繁になると、こちらも切れそうになっちゃいますけど(笑)。
とにかく息子には嫌われたくないんですね。いろいろ気がついて、あれこれ言いたくて仕方がない。でも言えば不機嫌な顔や声が返ってくるからコワイ。で、パートナーに言って、つつくわけですね。パートナーに対してはなんぼでも言える。大声で、こうせなアカンと思うねん!とそりゃぁもう断言する。
息子と同じように、それに逆らったりしてごらんなさい、エライ目に合うから(笑)。かといって、馬耳東風で聞き流したりしてもいけない。そんなことしたら、あとあとまで祟りがある。ですから、パートナーであり、息子の父親である亭主は、カミサンの息子に言うべき小言を全部ハイハイと孝行息子のように聞かなくてはいけません。まかり間違っても、「そんなことは本人に言えよ!」とか責任転嫁(??)してはいけません。
まぁ、亭主のほうも、若いときは自分の母親に偉そうにして、なんも言うことを聞いてこなかったはずですから、ちょっと時間がずれただけだと思って、カミサン相手に孝行息子を演じるのも、亡き母親に対する罪ほろぼしみたいなものです。
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Sayseiの子育て日記(再掲) 第96回 「父親的なもの」
第96回 「父親的なもの」
ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
新約聖書にそういう場面があります。世俗の家族が神の家族の桎梏となることを鋭く象徴するような場面です。
子供は、自我に目覚める思春期以降、遠いものほど価値であるような倒錯のうちに知的成長を遂げていくものですから、真っ先に否定の対象となるのは、最も近い母親や父親です。
動物の世界は多様ですから、一概には言えないけれど、母親は直接その身を分けて子を産むゆえに、たいてい大きな役割を果たすものですが、父親は子の存在すら知らず、子もまた父親の存在すら知らぬのが、むしろ普通でしょう。
学生時代になるほどと思いながら読んだ、アドルフ・ポルトマンの『人間はどこまで動物か』のかすかな記憶では、ヒトはみんな早産で生まれてくる未熟児で、成長に時間がかかる上、最も重要な発達がその成長の最後のほうに集中している。だからその成熟にいたるまで、非常に長い「子育て」の期間が必要だというふうなことが書かれていたと思います。
そういう文脈の中で、父親的なものの役割というのも重要になってきます。「父親的なもの」というのは、これは必ずしも遺伝子を与えた生物学的な「父」であることとはイコールではありません。父親が死別や離婚で、母親一人が、あるいは祖父母や父親の兄弟が「父親的なもの」を担うことは、どの社会でもありふれたことでしょう。
では「母親的なもの」とは異なる「父親的なもの」とは何でしょうか。
私が学生時代から愛読してきた詩人・思想家である吉本隆明さんが、学生の頃、太宰治に会ったときのことを書いています。その中で、太宰が「父性とはなんだか、分かるかね?」と若き吉本さんに尋ねます。吉本さんは不意の問いに答えられずにいると、太宰は「マザーシップだよ。君、不精髭を剃りたまえ」と言ったそうです。
禅問答のようだけれど、父性はついに母性に行き着くのでしょうか?太宰の資質からはこういう言い方は分からなくはないけれど、そして、現代の幾つになっても「男の子」というのが相応しいような青年を見ていると、ますますその感は深まるけれど、私自身はやはり母性とは異なる父性を夢見るところがあります。
ただ、その明確なイメージモデルがあるわけではありません。そんな範例が無くなってしまったのが戦後の私の生きてきた時代だった、とも言えるでしょう。
戦前・戦中の価値観が総崩れになり、敗戦という政治的軍事的敗戦よりも、日本人の精神的な敗戦のほうが、ずっと深刻だったかもしれません。政治も軍事も経済も恐ろしいほどの日本人の楽天性と勤勉さによって、たった一世代を経るうちに、もはや立ち上がれないのではないかというほどのぼろぼろの状態から、世界のトップラン ナーをうかがうほどのところまで回復してしまいました。
けれども、一度失われた精神的な「核」あるいは品格の「格」のようなものは、それほど容易に回復するものでもなければ、代用品がみつかるものでもないように思います。いまだに我々は精神文化の空虚さをかかえたままだと思わざるを得ません。
三島由紀夫や江藤淳がポジティブに打ち出したものにどれほど違和感を持ち、否定することがあっても、その本物の焦燥と苛立ちには深く共感し、共有せざるを得ないところがあります。
*
いまは「優しさ」万能の時代のようです。若い女性にどんな彼がいい?ときくと、たいてい「やさしいヒト」という答えが返ってきます。「カッコいいヒト」や「たくましいヒト」もあるけれど、それらもまず第一に「やさしいヒト」でなければなりません。
あとはその「やさしさ」とは何かが、ひとによってずいぶん違うことが問題なだけでしょう。が少なくとも、この言葉は、昔の父性に伴いがちだった権威主義的な匂いを否定している。少し論理に飛躍があることを承知で結論的に言ってしまえば、若いヒトがいま一番キライなのは、権威主義的なものでしょう。
かつての父性から権威主義的なものを除けば、なにが残るのか。太宰のいう「マザーシップ」でしょうか?
いまの親は、どんな親になりたいか、子供とどんな親子関係を築きたいか、というアンケートに答えて、多くの親が「友達のような関係」と答えたがるようです。
たぶん昔のような親が一方的に子に教え、指示し、従わせる上下関係ではなく、相手の自立性を認めた対等な個人と個人の関係を理想とする、という意味でしょう。
けれども、私自身は「友達のような親」というモデルには違和感を覚えます。どこかに嘘があると感じ、いい格好するな、という思いがあります。私は子供に媚びる親にはなりたくない。
「友達」と親とは違う、私はそう思います。ときには友人のように見えるかもしれない、ライバルのように感じることもあるでしょう、それはそれでいい。けれども、親と子は同一平面で「対等」ではありません。それは権威主義的な意味での上下関係だというのではないのです。
上下が空間的な関係だとすれば、親子は時間的な前後関係です。先に生まれたこと、そして好むと好まざるとに関わらず、その時間性を後へ引き渡していくものであること、そこにしか親と子の違いはない、そして親子関係が友達と異なる根拠も、それ以外にはありません。
範例なんて要らない、という考え方もあるでしょう。人それぞれでいい、勝手でいい、と。私も半分は賛成です。けれど、「勝手にやる」ことほど難しいことはありません。自由ほど厄介なものはない、と芥川龍之介も山巓の空気に譬えて書いていました。自由に思うことを書けばよい、と言われて書く作文のほうが課題と範例を与えられた作文よりもずっと難しいのです。「オレはオレ流に」と書いた文章ほど、案外どこかの誰かの文章の最も拙劣な無意識の模倣でしかないものです。
どんな「オレ流」も、ほんとうは確固としたモデルがあり、その強力な呪縛に抗って、わずか一歩でも半歩でも超えていくことの中でしか生まれてはこないのではないか。
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私個人にとって、そういう父性のモデルはいまだに明確ではありません。ただ、多くの親たちがアンケートで答えるような「友達」でも「優しい父親」でもないことは確かだし、そういう言い方にはつねに違和感を覚えてきました。かといって昔の権威主義的な父親像の信奉者でもないことは申すまでもありません。
けれど、あえてどちらかというなら、いま流布されている父親のモデルよりも、旧き良き時代の最上の父性のモデルのほうに共感をおぼえます。それは前にも少し触れた、幼いときに馴染んだバンビの父王のイメージや、山川惣治の「少年ケニヤ」の父親像からナショナルなものを取り去ったモデルです。
アニメや絵物語の父親像がモデルというのも何だか心許ない話だけれど、感覚的には正直なところだから仕方がありません。
もっとも、この種のモデルは、私自身の現実とは程遠く、あまりにも遠いために隔絶感があります。とうてい及びがたく、とうていあんな父親にはなれない、と。けれども、理想は理想でいいとも思います。私の胸の中にそういうものがあれば、どこかでそれが生きるときもあるでしょう。
実際にモデルのないところでどうしてきたのかと振り返ってみると、やはり自分の父親の背中を見ているところはあったのかもしれない、と思います。
父は貧しい農家の次男坊に生まれて、生真面目に勉強にスポーツに励み、中学を出ると、家が貧しいために奨学金ですべてをまかなえる国策で設立された東亜 同文書院という占領地上海にあった大学相当の学校へ通いました。
県と国からの奨学金ですべてをまかない、逆に親にそこから仕送りをしていたそうです。同文書院では柔道部の主将を務め、学業は全皆勤、成績は全優という模範的な優等生だったようです。
親の勧める結婚をし、子をもうけ、引き揚げて新設の中小企業で職についてからは、若気の至りで私がよく「斜陽産業」だとからかい、父も苦笑しながら否定はしなかった業界のビリから数えたほうが早いような不景気な会社にも関わらず、30年以上平社員から勤勉に勤め上げて、はじめて親会社からの天下りではない生え抜きの社長になって経営を担い、会社の危機を切り抜けてあとを託した。
その彼は父親として息子の私に権威主義的に振舞ったことは記憶する限りほとんどありませんでした。いまの私からみれば、いろいろここはこうだね、という部分はあるけれど、戦前戦中に育った親としてはデキスギだったと思います。
私が言うのも変な話ですが、たぶん一人息子を甘やかしすぎたのが唯一の失敗かもしれません(笑)。私の幼いときに母親が7年もの長い間、結核で療養生活をして隔離されたために、どうしても甘くなったのでしょう。ほとんど怒鳴ったり苛立ったりしたことのない、穏かな性格で、叱るときもいつも諭すような叱り方をしました。それは幾分母のエキセントリックな性格をひきついだ私には真似のできない点かもしれません。
ただ、私が自分の欠点を認識し、本当はこうあるべきなんだ、というふうな抑制ができたとすれば、それが父の背中、ということであったかもしれません。
私が一番好きな父は、幼いころ、家に帰るとくつろいで丹前に着替え、柔らかな長く幅広い帯を二重に腰に巻いて、私がその懐に飛び込んでいくと、いつも8畳の座敷で柔道の真似事の相手をしてくれたときの父です。
彼は同文書院の柔道で3段でしたが、いつも「いまの連中の柔道なら4段には相当する」と言っていました。背が低く、ずんぐりした体格で、胸が厚く、筋骨は歳をとっても逞しかった。寝技が得意で、その両耳朶は畳にこすれて球体のように膨れていました。
小学校の低学年のころの私は、父から西郷四郎(小説や映画の「姿三四郎」のモデル)のヤマアラシ(体落としの変形技)や、これと雌雄を争う横捨身の大技の話を聞いてワクワクする柔道ファンの少年でした。父のように小さな体で巨漢を投げ飛ばすことのできる柔道というものに惹かれ、それを自分の父が身につけていることを誇りに思っていました。
だから、小学校の2年か3年のころ、会社の人たちと家族ぐるみでいった岩国の錦帯橋近くの花見の席で、会社の酒乱と、そこへ転がり込んできたよその酒乱とが喧嘩してとっくみあいになり、父が仲裁に入ったときは、絶対にけしからん相手を投げ飛ばしてくれると思っていたのに、まぁまぁ、と穏かになだめて治めてしまったのを見て大いに失望したこともありました(笑)。
父はたいてい私にきちんと技をかけて、これが払い腰、これが巴投げ、と教えて投げてくれました。ときどき私が教えられた技をかけると、きれいに投げられてくれます。たいていはわざと投げられていると分かってしまうけれど、ときに不意の小外刈りのような小技をかけたとき、本当に予期せずにかかったかのように倒れて、私を喜ばせました。
そんな父が晩年咳がひどくなり、診断の結果肺繊維症に冒されていることを知ったときは、「わしは肺だけはぜったいに強いと思っていたが・・・」と芯から情けなそうでした。人より肺活量がかなり多く、胸が厚く、これは柔道で鍛えてきたからだ、といつも自負していただけに、母と同じように肺をやられたと知ってがっかりしたのでしょう。
それでも、発病して平均4年の命と言われる肺繊維症をかかえながら、7年を経過し、同じ肺ではあるが間質性肺炎と院内感染による細菌の複合的な感染、それに致命的に衰弱していた腎臓炎などによる衰弱が直接の引き金となって亡くなりました。
その一月前まで、咳はしながらも苦しくないと言って、毎日外出し、碁会所へ通い、川べりの散歩も毎日欠かしませんでした。医者に腎臓や糖尿病の進行のため色々禁じられていたでしょうに、最後まで好きなものを食べて過しました。
ある朝、「きょうは散歩にもいけないくらいしんどい」と電話があり、急遽病院に連れて行く と、即入院。それから1ヶ月、ベッドから一度も降りることなく亡くなりました。父らしいあっさりとした、見事な死に方だったと思います。
なくなってから、家を整理すると、亡くなる直前まで細かに収支を記録し、毎年の収支も細かくつけていたことが分かりました。老後はもう好きなようにしようと思っていたらしく、私たちが驚くほどの出費額でした。そういえば退職後は毎年海外へ出かけていたなあと思ったものです。
父には子孫に美田を残さず、という儒教的な思想が身についていました。以前にはかなり持っていた株もきれいさっぱり売り払っていて、平社員から貧乏会社で一 生勤め上げたサラリーマンらしく、本当に資産といえるものは、自分たちが老後に住み、いま次男が住む家のほかにほとんど何もなかったのです。たぶん若い頃のドラ息子に半分くらい、あとの半分をやっと老後の自分たちの楽しみに使ってしまったのでしょう。それはとても気持ちのいい生き方だと思いました。
父の座右の銘は「青山いたるところにあり」でした。それは大陸を放浪していた頃に身についた思想だと、生前に聞いたおぼえがあります。
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Sayseiの子育て日記(再掲) 第95回 酒、タバコ、アルバイト
第95回 酒、タバコ、アルバイト
多くの若者にとって、大学に入って大っぴらにできるようになって、中には溺れる者も出てくるのが、酒、タバコ、アルバイトでしょうか。アルバイトをここに 挙げるのは奇妙に思われるかもしれませんが、いまの学生を見ていると、アルバイトに「溺れている」というのがふさわしい者が結構多いように見えます。
昔は、男子の場合、酒、タバコ、麻雀だったような気がします。麻雀のところへパチンコとか玉突きとか、競輪・競馬とか、要は溺れるような娯楽を入れれば、大体当たらずといえども遠からずでしょう。昔から飲む、打つ、買うといいます。飲むはもちろん酒だけれど、ここに「タバコをのむ」も入れて、「打つ」は博打だから麻雀でも競馬でも賭け事遊びを入れればよいわけです。最後の「買う」は昔のことだから女遊び。これは一番溺れやすいけれど(笑)、いまは男女平等に溺れあう建て前です。
酒は昔ほどのインパクトが無くなりました。私たちが小中学生のころは、近所や親のつとめる会社に、必ず一人や二人はホンモノのアル中(アルコール中毒症患者)がいて、いつも赤い顔してフラフラと千鳥足で通りを歩いていて、下校時などにはよく絡まれたものです。乱暴をするのではないけれど、ひどく横柄で乱暴な口をきくかと思うと、急に卑屈になって、坊っちゃん呼ばわりして話しかけたりするので、いやでたまらなかった記憶があります。
そんなOさんが、社宅であったわが家をよく訪ねてくるのです。父は平気で座敷へ招き入れますが、一度入るとこれが長い。子供心にいつも、いやだな、と思っていました。 母も、しょうがないわね、というように肩をすくめてみせる。私も、座敷で父と差し向かいで酒を酌み交わしているOさんを、苦々しい思いで盗み見ていました。
父はにこにこ笑いながら、座布団にかしこまって正座したOさんに酌をしている。父は酒が弱くて、つきあい酒は飲むが、胃が弱くて、いつも家に帰ってから 母に背中をさすってもらいながら洗面所で全部吐いてしまい、そのまま蒲団に大の字になって寝てしまうような下戸でした。その白い手足が先まで真っ赤になっています。こんな苦しい目にあうのが分かっているのに、なぜ毎度毎度のめない酒なんか飲むのだろう、と子供心に合点がいきませんでした。
Oさんは父の注ぐ冷酒をのみほしながら、ふと父の手元の一升瓶を見て、「それひょっとして特級酒と違うの?」と驚いたように言いました。「ああ、これ は・・」と父は銘柄を口にして、なにかのときに買ったんだというようなことを言う。とたんにOさんの顔が崩れて「わしみたいなもんに・・・あんた特級酒出してくれるんか・・・」と吐くように言うと、そのいつもどんより曇っている目から涙がぼたばたと畳に落ちました。「何を言うとる。会社つくったときからの仲間やないか・・・」父はあいかわらず笑顔でそんなことを言っていました。
戦後、原爆で焼け野原になった広島の町外れに、ある大手の企業が酒瓶をつくる子会社を作りました。昔の同級生がその親会社にいて、大陸から引き揚げてきて失職していた家族持ちの父に声をかけてくれた。何もない焼け跡で、三十代になったばかりの数人の男たちが、互いに、おれは労務をやるから、じゃおまえ営業をやるか、という具合に、適当に分担しあって役割を決めたそうです。幹部はみな親会社からの天下り。父は平社員からはじめて、30年ほどつとめ、最後は親会社の会長の意向で、創業以来初の生え抜きの社長になりました。
額面が50円の株が、しばしば30円や40円の株価しかつかない、戦後の経済成長とはほとんど縁がないかにみえる会社でしたが、父はいくぶん古典的な家族主義的な会社観を持っていて、この会社と仲間の社員たちを愛しつづけ、もとの親会社がこの子会社を手放して、同業の中堅企業に吸収合併される形がはっきりして辞任するまで、青春の夢であった中国との友好のための活動以外の、自分のエネルギーのほとんどすべてをここに注ぎ続けました。
Oさんはその会社の創業時の社員仲間の一人だったようです。
私はこの光景を見てから、ただ単にアル中のいやなオジサンとしか思っていなかったOさんに、そんなに悪い感じを持たなくなりました。不思議なもので、こちらがそうなって、彼が近づいてきて話をするのを黙ってきくようになると、彼のほうも適当なところで満足して、すんません、すんません、と頭を下げながら去っていくようになりました。
毎年の会社ぐるみ・家族ぐるみの花見(たいてい岩国の錦帯橋まで出かけていって、筵を何枚も敷いた上で、ドンちゃん騒ぎをやった)でも、また別の酒乱がよその男と喧嘩して取っ組み合いをしたり、お酒の害については子供の頃からよく見聞きしてきました。
しかし、息子たちの世代は、もうそこまで馬鹿なことをしなくなったようです。節目節目に仲間同士飲んで馬鹿騒ぎをすることはあっても、赤の他人に迷惑をかけるようなことまではしないし、仲間どうしでも飲めない者に無理強いするようなこともなくなりました。
長男のアパートに年に一度か二度、パートナーと大掃除にいくと、たくさん空いたワインやウィスキーの瓶が立っています。しかしまぁ自分の体を酒で傷めるほどの馬鹿もすまいよ、とパートナーと言い合ってそう心配はしていません。
次男はもともと飲めないから、友人と軽い付き合い酒を一杯、二杯飲む程度でしょう。
次はタバコ。これも私たちのときは高校までは好奇心でちょっと試してみる程度。肺まで染み渡るのが快感になるほどのことはないから、大人たちは、なんでこんなマズイ、ケムタイものを吸うんだろう?と思って、よほどイキがっている馬鹿以外は、それ以上深入りしなかったものです。
しかし、大学になると、たいていが吸いはじめるので、なんとなく吸ってないとカッコウがつかない。徹夜麻雀などしていると、部屋の中はもう煙の渦巻くアヘン窟のようでした。私も20歳ころから(ということにしておきましょう)1箱、2箱とふえて、30代の前半には多い時期には、日に3箱くらい吸っていました。もともと肺が弱い母親の系統を受け継いでいるのにと母は猛反対したけれど、私は母と折り合いがわるかったので、20代のころは、かえって反発して決してやめようとはしませんでした。やがて夜中でも咳と痰で目が醒めるほどになり、ちょうど35歳のときに遅めの長子が誕生したので、それを機に、一切やめることにしました。
やめて2~3年の間は、美味そうに吸っている夢を見ましたが、さすがに3年を過ぎるとそんな夢も見なくなり、体からかなりニコチンが消えたような気がしました。 それでも15年間吸い続ければ、もとの肺に戻るのはやめてから15年間かかるというし、私の場合は人の3倍くらい吸ってきたから、やっと今頃になって少し は元の肺に戻ってきた頃かもしれません。一度、タバコで肺がんになって死んだ人の肺の映像を見たことがありますが、タールがべっとりついて真っ黒でした。タバコ のタールが癌の原因だとつきとめたのは日本人で、兎の耳にタールを塗り続けて癌の生成を確認したのは有名だけれど、ああいう映像を見ると、これで癌になら なければ不思議だと思わされます。
長男はタバコには一度も手を出さなかったでしょう。彼は自然気胸になったことがあって、肺は私の母の系統に体質が似ている可能性があるから、肺に悪いことはしないほうがいいし、たぶん本人も分かっているのでしょう。また、百害あって一利ないタバコに溺れるタイプでもないかもしれません。
次男のほうは、量は少ないようですが、タバコに手を出しています。映画など作っていると、待ち時間も多く、手持ち無沙汰ということもあって、けっこう吸う者がいるのでしょう。禁煙を勧める人たちの健康志向というのか健全志向みたいなものへの、イキがった反発みたいなものも、アーチスト気取りには結構多いから、それやこれやで、撮影現場周辺は結構タバコのにおいが絶えません。
自分が吸っていたときはあまり周囲への迷惑にまで気がまわらないから、自分の健康さえどうでもいいと思えば周囲の忠告を無視して吸い続けてしまいがちです。タバコ飲みは卑しくて、そこらじゅう灰をまきちらして汚いうえに、煙のキライな周囲の不愉快さに無頓着。おまけに学生気分の抜けない連中は、たいてい寝タバコなどして、蒲団や畳や絨毯を焦がしたりしていて、ひやひやすることがあります。彼らが去ったあとのレースのカーテンなどはどろどろで、タバコ臭くて、全部洗濯しないと、いつまでも悪臭が抜けません。こういうことは吸っている連中にはなかなか実感的に分からないのでしょう。
次男の場合はそれほど自分自身は多く吸わないので、いまのところ大きな実害はありませんが、赤ん坊ができたときには彼らのスモーキングは赤ちゃんにとって直接の危機になるでしょう。
彼が吸っていることを知って、あまりいい気はしなかったし、ろくなことはないぞ、というような忠告はしたけれども、それ以上言わなかったのは、20歳をすぎれば続けるもやめるも、家族や自分のことをよく考えて、自分で判断するしかないだろう、という思いからですが・・・。
最後はアルバイト。生活費や学費をかせぐためにアルバイトをしている学生の比率はどれくらいあるのでしょうか。少なくとも、アルバイトで稼ぐ金のうちで、学費や必要不可欠な生活の糧にまわる比率はそんなに高くはないでしょう。
たいていは、遊ぶ金、といって言いすぎなら、ゆとりの部分を補填するための財源ではないかという気がします。楽しみのためですから、それはそれでいい。旅行にいくために、あるいはバッグを買うために、化粧品を買うために、携帯電話の費用を捻出するために稼ぐのが悪いとは思いません。
けれども、私自身は、学生時代にアルバイトで稼ぐなんてことは、最小限にしたほうがいい、と思っています。べつだん学生の本分は勉強だからアルバイトなどせずに勉強ばかりしていろ、なんて言うつもりはないけれど、でもそれが基本の正論だとは思っています。アルバイトをして大学よりも多くのことを学んだ、などという学生を見ると、なにかこの子は勘違いしているな、としか思えません。世の中をなめているな、と。
どっこい、彼らにアルバイトをさせている企業やお店のほうは、彼らがのりにのって安い給料で社員並みに働いてくれて悪かろうはずはありません。諸経費を入れれば一人正社員をかかえれば、まず1000万円くらいみないといけない(たとえ給与が200万しかなくても、です)ところが、ピチピチしたお人よしの労働力が 100万円も出せば御の字で、嬉々として授業をさぼって働きに来てくれるのですから、鴨がネギを背負ってくるようなものです。
せいぜいおだてて、正社員なみの(給料ではなく)仕事を与えてやると、信頼された、とマゾみたいに喜んでくれるのですから、経営側としてはこたえられないでしょう。だから、いまや学生アルバイトが日本中の飲食をはじめとするサービス系産業の最下級労働力のたぶん3割も4割も支えているはずです。
こんなところでみすみす自分の資質や能力やエネルギーを浪費するのは、本当に人生の無駄でしかないとホンネのところでは私などは思っています。だから、親としては、アルバイトはするな、とは言わないけれども、アルバイトをしなくてすむだけの仕送りはする、と言って、いちおうそのとおりにしてきました。もちろん、それで勉強するか遊ぶかは本人次第。そこまでは干渉しません。彼女と遊ぶことも必要だろうし、友人の環をひろげていくことも必要でしょう。
昔のように、右肩上がりで、子供が小さい間は親が面倒をみるが、子供が成長すれば親よりも多くの収入を得るようになって、親に仕送りしたり親の面倒をみるようになる、というような時代ではありません。勉強していようと怠けていようと、私たち親にその結果が跳ね返ってくるわけではないし、そんなことを期待できるような時代ではありません。結果は本人自身に跳ね返っていく。だから、あとは自分次第。
なんとなくこういう親の考えを感じ取っていたからかどうか、二人とも小遣い銭をかせぐためにつまらないアルバイトに溺れるということはなかったように思います。たまに例えば次男が映画がいつでも見られるビデオ屋でアルバイトをしたり、というようなことはあったけれど、アルバイトがあるからその日はだめだ、などと息子たちが言うのは聞いたことがありません。
二人が同時に学生だったときは、もしも長男が私大でよその土地で下宿するとか、あるいは幸い近畿圏内にとどまっている次男が東京の私大にでも行くと言ったら、わが家の家計はもたなかったかもしれません。私は高給取りでも資産家の息子でもなく、いつもサラリーマン世帯の各該当年齢の平均年収を見ては、あれはわが家の年収のことではないか、と思う程度で推移してきた標準的な世帯でしたから、決して楽ではありませんでした。
私の両親も父の退職後はわりあい生活を楽しむほうでしたから、自分たちは毎年のように海外へ出かけたりして楽しい老後を送っていたけれど、わが家が一番しんどいときにも、独立した世帯だから自分たちでおやりなさい、という姿勢で、孫に小遣いはやっても、日常的な家計では当然のことながら支援されることはありませんでした。のちに思い出して、ときどきそのことでパートナーから、あのころはしんどかった、お義父さんたちも援助はしてくれなかったしね・・・と言われることがあります。
それでも私自身は若いころ、さんざん風来坊をして人一倍長く父母の世話になってきたし、結婚後もそのままだと70歳まで35年間毎月重い借金として払い 続けなくてはならなかった住宅ローンの前倒し返済など、大きな節目で助けてもらったことで、仏壇に足を向けては寝られない(笑)、と思っています。
こういうことは、もはや右肩上がりではなくて、若い世代が資産もなく収入も低くおさえられ、年寄り世代に資産が偏在している時代には、ある程度仕方のないことで、私自身も親にしてもらったことは、順繰りで息子たちにしてやれればそれでいいと思っています。そのことで息子たちがうしろめたく感じる必要はないし、彼らもまた、次の世代のために、できるだけのことをしてやればいいだけのことだと思っています。
そうかといって、美田を残すなどということはできやしないし、自分の老後の蓄えさえ、とても安心できるような状況にはないのですから、ただ彼らの学生時代の生活と学業を支える最低限の基盤くらいは提供しようと考えただけのことでした。
私の若いころとは違って、息子たちは結構充実した学生生活を過して、なけなしの仕送りや小遣いでで遊びほうけるなどという心配はありませんでした。。長男は 理系か文系か迷いの生じるような学部にいたから、自分の将来を決めるために結構まじめに勉強にも取り組んでいたと思うし、サークルも熱心に活動していたか ら、忙しそうでした。
次男も、理科系と同じように、製作系というのは具体的なワザを身につけていかないとどうしようもないところがあるので、各分野のスタッフワークをひととおり学ぶ必要があり、それを積極的に意識してやっていたし、長編1本を卒業制作として作れば卒業できるコースに在籍しながら、学校の機材が使えるあいだにもう一本、アニメも作っておきたいからと、長編を撮り終えたところでアニメコースに移り、アニメ作品も製作していました。だから、その分だけでも大忙しで、とても遊んでいる暇はなかったようで、楽しみといえば、ギターやピアノを弾き、たくさんのCDを借りたり買ってきたりして聴き、友人と徹夜のライブに行ったり、 映画を見たりすることくらいだったでしょう。
次男のばあいはとくに、映画づくりと音楽という好きなことしかやっていなかったので、仕事が同時に楽しみなアソビでもあったということができるかもしれません。
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Sayseiの子育て日記(再掲) 第94回 新しい友人たち
第94回 新しい友人たち
次男は映画コースに入り、企画、脚本、撮影、音響、照明、編集等々、スタッフワークを一通り学んでいきました。そのプロセスで、同じ志をもって一緒に映画製作に携わる仲間ができていきます。
高校時代には、幼馴染の二人以外にはほとんど友人を連れてきたことのない彼も、大学の友人はときどき連れてくるようになります。彼らはふつうの大学の卒業論文や卒業研究に相当する卒業制作として、自らの作品を一本つくらなければなりません。必ずしも自分の監督作品でなくても、共同制作ということでいいのでしょうが、監督を目指すなら当然自分の監督作品を作りたい。映画はよほど特殊なものでない限り、大勢の協働ではじめて成立するので、彼らは互いに友人の監督作品のスタッフワークを担いあって、それぞれの作品を仕上げていきます。自然、気心の知れた、そしてなるべく優秀な技能を持った友人と一緒に製作にあたりたいでしょう。
次男が深くつきあうようになったのは、1時間程度の彼らにとっては「長編」の映画を撮ろうとしていたI君、人形アニメを製作していたN君、イラストふうの二次元短編アニメを作っていたA君といった友人たちだったようです。ほかに、カメラワークや照明やさまざまなスタッフワークに優れたF君やA’君やK・・・等々幾人もの気心の知れた仲間と一緒に仕事をしていることが、のちに分かってきました。
その中で、次男がかなり頻繁にわが家へ連れてきたのが、I君とN君の二人。二人とも、いまどきの青年のひとつの典型を示すような、寡黙で、優しく繊細な印象のスリムな青年でした。彼らは映画製作の資金を捻出するために、アルバイトに精を出す一方、節約につとめているせいか、ふだんからあまりまともなものを口にしていないらしく、わが家へ来ると、なんでも美味い、美味いといって食べます。
スリムなわりには、食べる量が違う。わが家はふだん、おかずの種類が多いこともあって、米飯はご飯茶碗に軽く一膳で、おかわりすることは珍しい。(鮎やあわびの炊き込み御飯などのときは別!)次男はとりわけ少食で、油っこいものや甘いものが好きでそういうおかずは食べますが、量は多くありません。それでも痩せてはいず、ふっくらしています。しかし次男の友人たちは、彼よりずっとスリムに見えるのに、用意したご飯が足りなくて、もう一度炊きなおすことさえありました。
とりわけパートナーを喜ばせたのは、あれも食べるのは初めて、これも初めて、と彼らが食べたことのない料理がたくさんあって、それがけっこうパートナーのオリジナル作品だったりするので、それを美味しい、美味しいと残さず食べてくれることでした。私は美味しいも美味しくないも、出される食事への評は口にしないほうなので、パートナーにはふだんから欲求不満があるのでしょう。美味しいと口にしながら食べてくれる人が来ると、ほんとうに機嫌がよいのです。
とりわけN君はパートナーのお気に入りで、ほんとうに寡黙なおとなしい青年でしたが、いつも変わらず、食事はきちんと全部食べる。そして、土佐の出身ゆえ、酒にはめっぽう強い。彼のために、パートナーはある時期、毎日のように違った種類の名酒を買ってきて、二人で酌み交わしながら5合くらい軽くあけてしまうのでした。
長男はどういうわけかめっぽう酒に強いようだけれど、N君がわが家(私の両親が亡くなってから次男が住む同じ団地内の住居)へ映画製作のため一時期居候するようになったのは、長男が大学を出て他の都市へ行ってからなので、長男はパートナーの日常的なお相手はできません。残った私も次男も全然飲めないので、酒はもっぱらパートナーとN君のさしつさされつ。パートナーはN君を酒で負かしてやろうとけしかけて、一度ひどく飲ませたことがあり、N君は次男の家へ戻ってから悪酔いして吐いたこともあったようです。それを あとで聞いて、パートナーは勝った、勝った、と子供のようにはしゃいでいました。
N君にはとても可愛らしくて、天衣無縫のMさんという彼女がいました。もともとは同じ大学にいたようだけれど、中退して女優をしている(めざす?)と言っている女性。 少し日本人離れしたマイペースなところがあって、N君に上手に甘えて、N君を振り回しています。N君はそれを受け止めて振り回されるのをハッピーに感じている、そういう関係でした。
Mさんもときどきわが家へ遊びにきました。初めて私が会ったとき、彼女は階下のDKにいましたが、私が2階から降りていくと、顔を見るなり、こんにちは、と言っているこちらの顔をまじまじとしばらく見て、「似てるぅ~」と感極まったように言います。次男にそっくりだというのです。変わった子だなぁ、というのが初印象でした。
その日は次男の友人たちが集まって宴会をする日で、パートナーが料理を作っていました。彼女は「おばちゃん、なにか手伝いましょうか?」とやってきたのですが、パートナーがもう大体終わったからいいわ、と言うと、テーブルに並べたこれから次男の家に運んでいく数々の料理を眺めて、「おいしそぉ~っ!ひとつ貰っていいですかぁ~?」・・パートナーが返事をするかしないうちに、もう白い指先にちょいと肉団子などつまんで口にほうりこんでいます。やることなすこと天真爛漫、子供みたいなお嬢さんで憎めません。
でも、次男のグループで、私が最初に名前を顔をおぼえたのは、もうひとりの女友達A”でした。出勤のときにバスの車内で出会って話したのが、二人で話をした最初。ふだんそんなに目立たないおとなしい印象でしたが、自然体で話せて、しっかりした子だな、と思いました。芸大の子に共通するカジュアルな服装をしていて、スッピン。いつでも大勢の男の子たちにまじって仕事をし、一緒に寝泊りして、互いにあまり男だ女だと意識せずにいられる感じでした。もちろん、そのときには、彼女が将来、次男のパートナーになるとは夢にも思いませんでした。
I君は一見優しい現代ふうのやわな青年にみえるし、たしかに寡黙ではあるけれど、つきあっていくうちに、なかなかしっかりした青年で、彼らの仲間内では論理的な思考ができるほうであることがわかってきました。たぶん幾分親分肌なところがあり、映画製作も自分で完全にコントロールしたいタイプでしょう。完璧主義者なのかもしれません。野心と言っていい志の高さもある。落ち着いていて、寡黙なようでいて、人前での喋りも巧みにできる。クールなようで、半分はポーズ。けっこうお喋りな体質ではないかという気がします。とくに女性を口説くときには(笑)。また、自分の世界を守るためには気難しい完璧主義者にみえるけれど、異性 については惚れっぽくて・・いや惚れられっぽくて?少し緩いのではないか(笑)。
彼の卒業制作は、なかなか良かった。自主制作の学生映画らしい生硬さと、キャストの問題、部分的に演出の難点、それに新人作品としては、全体に冒険的とはいえず、やや小さくまとまってしまった感はありましたが、確実に一人の志ある映画作家の誕生を予感させる作品でした。この作品で彼になびいた女性が多かったという噂です(笑)。
N君は少し習っただけの人形づくりに抜群の才能を発揮しました。自分で知らなかった資質を人形づくりを習ううちに見出したのです。こつこつと時間のかかる人形作りにいそしみ、なおかつ時間のかかるアニメーション撮影をして、短編をつくる。まだごく短い短編で、モチーフが明瞭にならないので、評価しにくいけれども、彼の持続的な意志の強さは、仕事の上でも、生活上でも、比類のないものがあります。それに、ふだんは寡黙すぎてなかなか何を考えているのか分かりにくいけれど、ここ、というところは実によく見 ていて、ときにビシッと正鵠を得た言葉を吐くことがあります。彼の直観的な判断力はI君の論理よりも鋭くて深い。そして、彼には本当の強さと優しさがある。いわば愛のある人間とでも言いましょうか。
N君は客観的に見て非常に整った顔つきをしており、彼女と一緒にいると、典型的な美男美女のカップルです。はじめ、次男がN君とあんまり親密なので、あいつら 大丈夫か?(笑)と冗談でパートナーに言ったことがあります。パートナーも、大学4年間、彼女なしで過していたように(われわれの目には)見えた次男のことを、母親流に心配して、「ある日突然、これがぼくの嫁さんです」って連れてきたら男の子だったりしてね、と冗談言っていたものでした。
まぁ、いまどきだから、何があっても驚きはしないし、私もドゥルーズのいう「n個の性」っていうのもまんざら分からないわけじゃない。そうなりゃ、そうなっ たで仕方ないよな、と思っていました。しかし、幸い(?)、次男の場合はそうではなかったようです。N君もI君も普通の親友、彼女はA”、というふうに、ちゃんと男女の棲み分けができていたようです。(笑)
もう一人の親しい仲間 A* は、あとの3人がみな「A* さん」とさん付けで呼ぶ、実際の年齢が少し上の友人でした。オトナといえばこの青年が一番オトナでした。彼はわが家には顔は出すけれど、ゆっくり一緒に食事をしていくようなことがなかったので、よくは知りません。ただ、彼の描くイラストふうのアニメは、非常に個性的で、形象のユニークさと、色彩感覚に優れ、原画だけでも美術展を開けるだけの力量があるように思われました。実際、その後彼のアニメはある公募コンペに入賞したり、ブラジルの映画祭に招かれたりもしたようです。
また、I君の作品も、次男の作品も、ある国際学生映画祭で、400余の国内外からの応募作品の中で上位十数位の入賞圏内には残って、今後に期待を持たせました。N君の作品も以前にアニメで入賞しているようです。そして、彼らは卒業後に映画製作集団を4人で立ち上げ、それぞれに新作に取り組んでいます。
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長男も大学であらたな友人ができたようです。高校のときはよくわが家へ連れてきたのですが、大学へ入ると、次男とは逆に、あまり連れてはこなくなりました。けれども、学校の仲間、サークルの仲間、それに高校時代の友人との親しいつきあいも含めて、友人の環は確実に広がっていることが感じられます。
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Sayseiの子育て日記(再掲) 第93回 サークル
第93回 サークル
私たちのときは「合ハイ」ってのがあってぇ・・・などと言うと、いまの若い女子大生などは、「なに、それ?」って全然わからないようで、「きみらは合コン、ってやるだろ?いきなり飲み会へ行くわけだ。ぼくらのときは、合同ハイキングって、昼間はリュックサックなんか背負って、どこか野山を歩いて親睦を深めたりしたんだ。健康的だったんだよ」なんて説明すると、キャハハッ、男の子とホンマにハイキングとかするのん?と大笑いします。
彼女たちの言う「サークル」という言葉にも戸惑ったものです。私たちが学生のころは、「サークル」も「クラブ」も「××部」も同じ意味で使われていました。要は、スポーツにせよ文化的な趣味活動にせよ、大学の中での部活動をする組織であって、あくまでも活動の単位は大学毎。もちろん大学間の交流もあれば、活動の盛んなクラブ活動の場合、近畿とか全国とか、それぞれのレベルでの連合組織みたいなものもありました。
ところが、いま「サークル」と言えば、はじめから複数の大学をまたがる活動組織を意味しているようです。いちおう拠点校的な大学はあって、「××大学のサークル」などと称しているようですが、最初から大学横断的な開かれた組織になっています。それが分かったときには、なるほど、これは進化だなぁと感心したものです。
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長男は大学へはいってもサッカーをやるかと思っていましたが、彼がイメージしたような仲間とサッカーを楽しむ形の組織なり環境なりがうまく見つけられなかったようです。それで、授業を受ける以外に何をしているのかは私たちも知りませんでした。
ところが、あるとき、たしか珍しく私の大学時代の友人夫妻がわが家へ来たときだったのではないでしょうか。その友人は長男の通う大学の教授をしていたので、ぽつぽつと長男の学生生活のことなど尋ねていました。その中で、なにかやってるの?という問いに、ボランティア的なアルバイトで、ダウン症の子をあずかって一緒に過ごすサークルにはいっています、とさらっと答えているのを聞いて、えっ?と思ったのです。
日曜日になると朝から出かけていって、夕方帰ってきたりするけれど、どこへ行くとも言わないし、こちらも根掘り葉掘りそういうことを尋ねない習慣なので、何も知らなかったのです。そういうことをやっていると言うことに、少しはてらいがあったのでしょう。
大学でそういうことを中心になってやっている人がいて、はじめは友達に誘われて参加して、だんだん本格的にやるようになったようでした。ダウン症の子供をもつ親が、1日1000円?とかのごくわずかな「バイト料」で子供を預けて、自分たちだけの時間がもてる。子供のほうも、よく面倒をみてくれる兄貴や姉貴と一緒に、プールで泳いだり、どこか自然の良いところへ行楽に出かけたりして楽しい一日を過せる。そういう趣旨らしいのです。
それで、普通のアルバイトのように稼げるわけではないから、参加する学生はバイト料目当てというわけではなくて、基本的にはボランタリーな活動だけれど、この活動を始めた人たちが、わずかでもお金をもらうほうがいいと考えたようです。たしかに、参加する学生たちが責任を自覚する象徴ともみえるし、子供を預ける親の心理的な負い目を軽くして対等なつきあいのできる心理的効果もあるのかもしれません。
いろいろな大学の学生が参加して、なかなか活発に活動していたようです。実際の活動は見たことがないので分からないけれど、かなり頻繁に出かけ、またメール(メーリングリスト?)などで始終、サークル仲間とコミュニケーションを交わしていたようです。
親の私たちにとっては思いもよらない活動に長男が参加していることを知って、新鮮な驚きがあったけれど、もちろん彼がそういう活動をしていることがとても嬉しいことでした。彼らしく、あまりそういうことをお喋りすることもなく、けれども私の友人に聞かれればさらっと答えていたように、自然体でやれているようなところが良いな、と思いました。
いわゆるボランティア活動、とりわけ福祉的な活動をやっている人の中には、わたしは世の中のためになることをやっているんです!という思いが鼻息の荒さになって出ているような人がいて、閉口することがあるので、私はそういう人たちとは一線を画した賢い創設者の思想をこのサークルに感じて、好感を覚えました。そし て、パートナーも私も、長男がそういうサークルに参加していることを嬉しく思っていました。
この種のサークルは、1年生、2年生が実働部隊らしくて、就職活動などの始まる3年、4年と後半になると、後輩をみつけて参加を促し、継続性を担保して いくことに重点が移っていきます。長男もかなり一所懸命活動を担っていたようですが、そうして徐々に後輩を育て、彼らにつなぎながら、少しずつこのサークルを卒業していったようです。
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Sayseiの子育て日記(再掲) 第92回 はじめての下宿生活
第92回 はじめての下宿生活
次男の大学は、もし電車などを乗り継いでいけば、自宅から2時間半くらいはかかるような場所にあります。無理に自宅から通って通えなくはありませんが、それだとどうせ大学へ足が向かなくなるに違いないし、本人はもとより家を出たいのですから、下宿ということになりました。
もともと私は大学くらいになれば、できれば一度家を出て一人で生活するほうがいい、と思っていたので、次男にとってはよい機会だと思いました。長男はとても羨ましがっていましたが、成り行き上仕方がありません。同じ市内にいて下宿させるほど、こちらは経済的にゆとりがありません。
とくにツテもないので、インターネットで探して、学生下宿の斡旋では結構大手らしい会社のサイトで見つけました。価格は場所や広さで大体相場が決まってくるので、条件としてこの二つが決まればおのずと探す範囲も決まってきます。
場所については、周囲に何も無い大学の近くであれば、安いことは安いのです。大学と下宿を往復する生活なら、電車賃も安く、金がかからずにすむので経済的でもあります。実際、主として値段の面から、大学の近くで下宿する学生は少なくなかったようです。
しかし、次男自身も私たちも、その考えには反対でした。いやしくも文化の創造に関わるような仕事をしたいと考えている学生が、まるで文化のない不毛の地に住んで、学校と下宿を往復するような生活をするというのは、どう考えてもそこから文化が生まれてくるとは思えません。いくら生真面目に授業に出ていい成績をとっても、もっと大事なものを失うに違いありません。
学校に通うには多少不便でも、絶対に都心に遠くない場所がいい、と思いました。結果的には、都心にいたる大きなターミナルから遠くない場所で、狭いけれど価格も手ごろなマンションを見つけました。オーナーもそこに住んでいますが、管理会社が間に立って全部仕切っているので、ベタベタした人間関係もなく、外部に対するセキュリティもきちんとしています。1階はコンビニが入っていて、24時間態勢なので、その面でも便利でした。
結局次男は、4年間、このマンションに暮らしました。少し手狭だったので、途中、同じマンションの少し広い部屋に移りましたが、それ以外、格別の不満はなかったようです。
うまいものが食べたくなれば、簡単に自宅へ帰ってくることもでき、荷物の往復も自動車で容易でした。うちでも次男の部屋はそのままにしてあるので、彼は両方の部屋を使い分けることができたのです。
大学生になっても、はじめての下宿生活だから、しばらく連絡がないと、始めのうちは結構取り越し苦労をしたものです。のちに長男が大学院で遠くの研究所へいくのに一人住まいをはじめたときも、こちらは遠かったから、しばらく音沙汰がないとひどく不安になったりしました。成人するほどの年齢になっても、子は子、親は親、むしろ親のほうがなかなか気持ちの上では子離れできません。
しかし、それも慣れで、まぁ何とかやっているだろう、とそのうち平気になりました。
心配なことを手紙で書いてやったこともあります。たとえば、親にとって一番怖いのは、交通事故や犯罪のような事故に巻き込まれることと、健康を害することです。事故に関しては、長男が運転免許をとったときは、もともとそう器用でないという頭があるものだから、ひどく心配でした。本人も心得ていたので、自分から運転を積極的にしようとはしなかったおかげで、まだしも救われました。
次男のほうも免許をとって、私の義父の乗っていた車を乗り回すようになりましたが、こちらはわりと慎重で運転振りに安心感があったので、そう心配はしませんでした。
私が事故に遭ったら、どんなに軽微であっても、すぐに警察に届けて事故証明をもらわないといけない、というのをあまりたびたび言うので、二人の息子は、耳タコだ、と閉口していたことがあります。
実は、ずいぶん昔の話で、まだ二人の息子もない、結婚して間もないころのこと、高速道路を出て普通の幹線道路へ入ろうというところで、後尾をコツンと追突されたことがあります。
向こうの車は前が大破しましたが、こちらはびくともせず、同乗のパートナーも私も何とも無いので、誠実そうな相手の態度に、いちおう住所と氏名だけ紙に書いてもらって別れました。
ところが数日後にパートナーの腕に痺れが現われ、おまけに相手が保険に加入していなかったことがわかり、それでも相手とは冷静に電話でやりとりしたりしていたのに、 日が経つにつれて、向こうの親などが、「どちらが悪かったのか分かりませんしねぇ」などと居直る始末で、ずいぶん厭な目にあったのです。
それで、息子たちには、 とにかく何があってもなくても、すぐに警察に届けて処置せよ、と繰り返し言い続けていたのでした。
また、病気については、一番怖いのは肺炎と盲腸でした。どちらもありふれた病気で、しかも下手をすると一晩でコロッと逝ってしまうこわい病気だからです。実際そんな例を比較的身近な人のうちに経験してきたので、これらについては、症状と処置について、二人に手紙や口頭であらかじめ理解させておきました。
あとは日常的な風邪の予防に、感染はいつも粘膜を通して生じるので、外出先から帰ったら、喉、目、鼻まで全部綺麗に洗うこと、水分を十分にとることなど、当然のようでいて、案外励行できないゆえ、意識的にやったほうがいいような事どもを書き送ったりしました。
料理のほうは母親が簡単にできるような一人暮らしメニューを教えたりしていたようです。私は彼らが高校生くらいのときに、料理教室にでも行って料理だけは学んでおいたほうがいい、と思っていましたが、結局は行きませんでした。もっとも、関心がないわけではなく、母親に料理のことで時折質問したりしているので、私の 若いときよりはマシなようです。
私自身が調理ができないので、ひとに押し付けるわけにもいかないのですが、これからの若い人は、男女の区別無く料理は必須としておぼえたほうがいいと思っています。私が自立できないのは料理ができないからで(笑)、これからの男は料理もちゃんとできてこそ女性と対等になれるような気がします。
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Sayseiの子育て日記(再掲) 第91回 ポケットゼミ
第91回 ポケットゼミ
長男は希望どおり、自転車で15分ほどで通える大学へ入学できました。家を離れたいという気持ちも強かったのでしょうけれど、色々な意味で親としては家から通ってくれて随分助かりました。
中学、高校でもほったらかしなのですから、まして大学生になったら親なんて、子供が帰ってくる巣の管理人みたいなもので、突き放して言えば、まかない、掃除、洗濯つきの下宿みたいなものです。こう言うとパートナーは怒るかもしれませんが・・・(笑)。
もちろん、母親が心をこめてつくる食事はほかでは決して食べられないものだし、季節ごとに衣服を入れ替え、月々小遣いまでくれる下宿はないでしょう。
しかし男親の私はもう一番近い学生時代の息子については、ほとんどエピソードらしいものを持っていません。
そんな中で、長男にとって一つの節目になったエピソードとして、大学のポケットゼミというのがあります。大学というのは、最初の2年間は私の学生時代には「教養部」と呼んで、どの学部学科へ入学しようと、クラス単位で語学や体育や専門の基礎科目の授業を受け、理科系でも全学共通の文科系科目などを受講して教養を広げるというふうな期間で、ほとんどの授業は大勢の人数で受講します。なかには1000人も入る?ような大講堂なみの教室で受ける授業もあり、もちろんマイクを通した教員の声を聴きます。
そして、その多くの授業は退屈で、眠いのなんの・・・。中には話術のうまいのや、新しい興味深いことを喋ってくれる人もないではないけれど、たいていは本読みゃわかるじゃないの、とか、それプリントにしてくれたらおしまいなんだけど・・・というふうな授業が殆どのような気がします。いや、少なくとも当時はそういう気がしていました。
教員たちのほうも、これじゃいかんな、と内心おもっていたのでしょう。大学の勉強らしい勉強と感じられるのは3年生になって各学科へ配属されてようやく始まるゼミナールなのですが、これを試しに1年坊主にもやらしてみよう、ということになったようです。
それが「ポケットゼミ」で、長男が入った学校では、ちょうどその年に初めてこの制度が実験的に導入されました。科目によって、長期間毎週開講されるものもありましたが、夏休みなどに集中的に行われるものもあり、学生たちが好みのゼミを選択して登録し、受け入れ側の教員の判断と人数調整などを経て、受講することができるシステムだったようです。
その「ポケットゼミ」のメニューの中に、夏休み集中型で、大学のキャンパスとは別の遠隔地の大学附属研究所で、霊長類について学ぶゼミがありました。定員5人で、希望者が多いと担当教員が審査して選ばれた者だけが行けることになっていました。
長男は面白そうだから、とこれに応募したところ、志望動機が良かったとかで、無事パスしました。希望者は結構多かったようですが、男の子はみんな振り落とされて、彼以外の4人は全員女性という、黒一点の受講生でした。志望動機には、どうやら中学のときに3年間継続的に取り組んだニホンザルの研究のことに触れて書いたようです。そんなことを中学のときやった人はあまりなかったでしょうから、ユニークさを買ってくれたのかもしれません。
彼はこの研究所で楽しい夏休みのゼミ合宿を楽しみ、研究所の院生などにも可愛がってもらって、霊長類研究所の自由な雰囲気に好感を持ち、強い印象を受けたようです。
その後、視覚について生理学的な?研究をしている学部の先生の指導を受けて卒業研究をするようにはなりますが、卒業後はその研究室へ残らずに、霊長類研究所を志望することになったのは、ポケットゼミの経験が色々な意味で大きな影響を及ぼしたのだろうと思います。
私も実は理学部で生物学を勉強する学科を出て、卒業実習にはニホンザルの群れの調査を選んだので、ときどき、蛙の子は蛙やねぇ、みたいな言い方をされることがあるのですが、私には全然そういう方向へ誘導する気がありませんでした。
長男がそういう方面へ行ったのは、まったく彼自身の意志で、結果的に偶然そうなっただけのことだと思います。
影響を与えてしまったとすれば、中学1年の夏休みの自由研究を安易に1日で済ませるために、サルの餌場へ連れて行って、調査の仕方をアドバイスしたことだけでしょう。
もちろん、このときは宿題を最小限の努力で片付けてしまうことしか頭にはなく、そういう学問が面白いから将来やってみないか、というような思いはまったくありませんでした。
もともと私には、自分の果たせぬ夢を息子に託す、という発想はありません。次男の映画にしても同じことで、私がいま若ければ映画を撮っていたかもしれないけれど、だからといって、自分の夢を次男に託すつもりもなく、過去にもそれはありませんでした。私はやりたいし、やれる、と思ったら自分でやりたいので、「託す」という発想はありません。
ただ、自分が若いときに多かれ少なかれ関心を持ったような分野に二人が進んでいって、なんとなくこんなことをやっているのだろうなぁ、と見当がついたり、ときにはそのことについて話ができる、というのはとても嬉しいことです。これが銀行員だったり、バリバリの営業マンだったり、お役人だったりしたら、私は息子たちと共通の言語が少しも持てなかったでしょうから。
いつだったか、長男がビデオレンタルの店で初登録するときに一緒に行き、アンケートに答えて彼が「将来の希望の職業」に、「公務員」と書いたときは、内心ちょっとがっかりしたものです。中学1年くらいのときだったでしょうか。「ライオンさんになる」と言っていた幼い長男が、どうしてそんな現実的な希望を書いたりするようになったのか知りませんが、きっと、公務員というのは生活が安定してて、仕事が楽で、いいよ、とおませな友達にでも吹き込まれたのかもしれません。
食えるかどうか、という意味では、二人とも霞を食って生きるような道を選んだわけですが、自分もいつもそうだったので、あまり親として危機感がなく、まぁやってみなはれ、という感じで見てきました。
それにしても、人生の節目の選択には、なにがどんなふうに影響しているのか、なかなか興味深いところがあります。中学のときの自由研究だの、大学1年の ポケットゼミだの、思わぬところでちょっとした要素と要素が結びつき、意味ありげな脈絡を作って、一つの選択肢の系を浮かび上がらせてくる、といった按配です。
偶然といってしまえばそれまでですが、そこに不安を感じるか、面白みを感じるかで、生き方もずいぶん違ってくるような気がしています。
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