Sayseiの子育て日記(再掲) 第96回  「父親的なもの」 | Sayseiの子育て日記(再掲)

Sayseiの子育て日記(再掲) 第96回  「父親的なもの」

第96回  「父親的なもの」

 ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」 

 新約聖書にそういう場面があります。世俗の家族が神の家族の桎梏となることを鋭く象徴するような場面です。

 子供は、自我に目覚める思春期以降、遠いものほど価値であるような倒錯のうちに知的成長を遂げていくものですから、真っ先に否定の対象となるのは、最も近い母親や父親です。

 動物の世界は多様ですから、一概には言えないけれど、母親は直接その身を分けて子を産むゆえに、たいてい大きな役割を果たすものですが、父親は子の存在すら知らず、子もまた父親の存在すら知らぬのが、むしろ普通でしょう。

 学生時代になるほどと思いながら読んだ、アドルフ・ポルトマンの『人間はどこまで動物か』のかすかな記憶では、ヒトはみんな早産で生まれてくる未熟児で、成長に時間がかかる上、最も重要な発達がその成長の最後のほうに集中している。だからその成熟にいたるまで、非常に長い「子育て」の期間が必要だというふうなことが書かれていたと思います。

 そういう文脈の中で、父親的なものの役割というのも重要になってきます。「父親的なもの」というのは、これは必ずしも遺伝子を与えた生物学的な「父」であることとはイコールではありません。父親が死別や離婚で、母親一人が、あるいは祖父母や父親の兄弟が「父親的なもの」を担うことは、どの社会でもありふれたことでしょう。

 では「母親的なもの」とは異なる「父親的なもの」とは何でしょうか。

 私が学生時代から愛読してきた詩人・思想家である吉本隆明さんが、学生の頃、太宰治に会ったときのことを書いています。その中で、太宰が「父性とはなんだか、分かるかね?」と若き吉本さんに尋ねます。吉本さんは不意の問いに答えられずにいると、太宰は「マザーシップだよ。君、不精髭を剃りたまえ」と言ったそうです。

 禅問答のようだけれど、父性はついに母性に行き着くのでしょうか?太宰の資質からはこういう言い方は分からなくはないけれど、そして、現代の幾つになっても「男の子」というのが相応しいような青年を見ていると、ますますその感は深まるけれど、私自身はやはり母性とは異なる父性を夢見るところがあります。

 ただ、その明確なイメージモデルがあるわけではありません。そんな範例が無くなってしまったのが戦後の私の生きてきた時代だった、とも言えるでしょう。
 
 戦前・戦中の価値観が総崩れになり、敗戦という政治的軍事的敗戦よりも、日本人の精神的な敗戦のほうが、ずっと深刻だったかもしれません。政治も軍事も経済も恐ろしいほどの日本人の楽天性と勤勉さによって、たった一世代を経るうちに、もはや立ち上がれないのではないかというほどのぼろぼろの状態から、世界のトップラン ナーをうかがうほどのところまで回復してしまいました。

 けれども、一度失われた精神的な「核」あるいは品格の「格」のようなものは、それほど容易に回復するものでもなければ、代用品がみつかるものでもないように思います。いまだに我々は精神文化の空虚さをかかえたままだと思わざるを得ません。

 三島由紀夫や江藤淳がポジティブに打ち出したものにどれほど違和感を持ち、否定することがあっても、その本物の焦燥と苛立ちには深く共感し、共有せざるを得ないところがあります。

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 いまは「優しさ」万能の時代のようです。若い女性にどんな彼がいい?ときくと、たいてい「やさしいヒト」という答えが返ってきます。「カッコいいヒト」や「たくましいヒト」もあるけれど、それらもまず第一に「やさしいヒト」でなければなりません。

 あとはその「やさしさ」とは何かが、ひとによってずいぶん違うことが問題なだけでしょう。が少なくとも、この言葉は、昔の父性に伴いがちだった権威主義的な匂いを否定している。少し論理に飛躍があることを承知で結論的に言ってしまえば、若いヒトがいま一番キライなのは、権威主義的なものでしょう。

 かつての父性から権威主義的なものを除けば、なにが残るのか。太宰のいう「マザーシップ」でしょうか?

 いまの親は、どんな親になりたいか、子供とどんな親子関係を築きたいか、というアンケートに答えて、多くの親が「友達のような関係」と答えたがるようです。

 たぶん昔のような親が一方的に子に教え、指示し、従わせる上下関係ではなく、相手の自立性を認めた対等な個人と個人の関係を理想とする、という意味でしょう。

 けれども、私自身は「友達のような親」というモデルには違和感を覚えます。どこかに嘘があると感じ、いい格好するな、という思いがあります。私は子供に媚びる親にはなりたくない。

 「友達」と親とは違う、私はそう思います。ときには友人のように見えるかもしれない、ライバルのように感じることもあるでしょう、それはそれでいい。けれども、親と子は同一平面で「対等」ではありません。それは権威主義的な意味での上下関係だというのではないのです。

 上下が空間的な関係だとすれば、親子は時間的な前後関係です。先に生まれたこと、そして好むと好まざるとに関わらず、その時間性を後へ引き渡していくものであること、そこにしか親と子の違いはない、そして親子関係が友達と異なる根拠も、それ以外にはありません。

 範例なんて要らない、という考え方もあるでしょう。人それぞれでいい、勝手でいい、と。私も半分は賛成です。けれど、「勝手にやる」ことほど難しいことはありません。自由ほど厄介なものはない、と芥川龍之介も山巓の空気に譬えて書いていました。自由に思うことを書けばよい、と言われて書く作文のほうが課題と範例を与えられた作文よりもずっと難しいのです。「オレはオレ流に」と書いた文章ほど、案外どこかの誰かの文章の最も拙劣な無意識の模倣でしかないものです。

 どんな「オレ流」も、ほんとうは確固としたモデルがあり、その強力な呪縛に抗って、わずか一歩でも半歩でも超えていくことの中でしか生まれてはこないのではないか。

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 私個人にとって、そういう父性のモデルはいまだに明確ではありません。ただ、多くの親たちがアンケートで答えるような「友達」でも「優しい父親」でもないことは確かだし、そういう言い方にはつねに違和感を覚えてきました。かといって昔の権威主義的な父親像の信奉者でもないことは申すまでもありません。

 けれど、あえてどちらかというなら、いま流布されている父親のモデルよりも、旧き良き時代の最上の父性のモデルのほうに共感をおぼえます。それは前にも少し触れた、幼いときに馴染んだバンビの父王のイメージや、山川惣治の「少年ケニヤ」の父親像からナショナルなものを取り去ったモデルです。
 アニメや絵物語の父親像がモデルというのも何だか心許ない話だけれど、感覚的には正直なところだから仕方がありません。

 もっとも、この種のモデルは、私自身の現実とは程遠く、あまりにも遠いために隔絶感があります。とうてい及びがたく、とうていあんな父親にはなれない、と。けれども、理想は理想でいいとも思います。私の胸の中にそういうものがあれば、どこかでそれが生きるときもあるでしょう。

 実際にモデルのないところでどうしてきたのかと振り返ってみると、やはり自分の父親の背中を見ているところはあったのかもしれない、と思います。

 父は貧しい農家の次男坊に生まれて、生真面目に勉強にスポーツに励み、中学を出ると、家が貧しいために奨学金ですべてをまかなえる国策で設立された東亜 同文書院という占領地上海にあった大学相当の学校へ通いました。

 県と国からの奨学金ですべてをまかない、逆に親にそこから仕送りをしていたそうです。同文書院では柔道部の主将を務め、学業は全皆勤、成績は全優という模範的な優等生だったようです。

 親の勧める結婚をし、子をもうけ、引き揚げて新設の中小企業で職についてからは、若気の至りで私がよく「斜陽産業」だとからかい、父も苦笑しながら否定はしなかった業界のビリから数えたほうが早いような不景気な会社にも関わらず、30年以上平社員から勤勉に勤め上げて、はじめて親会社からの天下りではない生え抜きの社長になって経営を担い、会社の危機を切り抜けてあとを託した。

 その彼は父親として息子の私に権威主義的に振舞ったことは記憶する限りほとんどありませんでした。いまの私からみれば、いろいろここはこうだね、という部分はあるけれど、戦前戦中に育った親としてはデキスギだったと思います。


 私が言うのも変な話ですが、たぶん一人息子を甘やかしすぎたのが唯一の失敗かもしれません(笑)。私の幼いときに母親が7年もの長い間、結核で療養生活をして隔離されたために、どうしても甘くなったのでしょう。ほとんど怒鳴ったり苛立ったりしたことのない、穏かな性格で、叱るときもいつも諭すような叱り方をしました。それは幾分母のエキセントリックな性格をひきついだ私には真似のできない点かもしれません。

 ただ、私が自分の欠点を認識し、本当はこうあるべきなんだ、というふうな抑制ができたとすれば、それが父の背中、ということであったかもしれません。

 私が一番好きな父は、幼いころ、家に帰るとくつろいで丹前に着替え、柔らかな長く幅広い帯を二重に腰に巻いて、私がその懐に飛び込んでいくと、いつも8畳の座敷で柔道の真似事の相手をしてくれたときの父です。

 彼は同文書院の柔道で3段でしたが、いつも「いまの連中の柔道なら4段には相当する」と言っていました。背が低く、ずんぐりした体格で、胸が厚く、筋骨は歳をとっても逞しかった。寝技が得意で、その両耳朶は畳にこすれて球体のように膨れていました。

 小学校の低学年のころの私は、父から西郷四郎(小説や映画の「姿三四郎」のモデル)のヤマアラシ(体落としの変形技)や、これと雌雄を争う横捨身の大技の話を聞いてワクワクする柔道ファンの少年でした。父のように小さな体で巨漢を投げ飛ばすことのできる柔道というものに惹かれ、それを自分の父が身につけていることを誇りに思っていました。

 だから、小学校の2年か3年のころ、会社の人たちと家族ぐるみでいった岩国の錦帯橋近くの花見の席で、会社の酒乱と、そこへ転がり込んできたよその酒乱とが喧嘩してとっくみあいになり、父が仲裁に入ったときは、絶対にけしからん相手を投げ飛ばしてくれると思っていたのに、まぁまぁ、と穏かになだめて治めてしまったのを見て大いに失望したこともありました(笑)。

 父はたいてい私にきちんと技をかけて、これが払い腰、これが巴投げ、と教えて投げてくれました。ときどき私が教えられた技をかけると、きれいに投げられてくれます。たいていはわざと投げられていると分かってしまうけれど、ときに不意の小外刈りのような小技をかけたとき、本当に予期せずにかかったかのように倒れて、私を喜ばせました。

 そんな父が晩年咳がひどくなり、診断の結果肺繊維症に冒されていることを知ったときは、「わしは肺だけはぜったいに強いと思っていたが・・・」と芯から情けなそうでした。人より肺活量がかなり多く、胸が厚く、これは柔道で鍛えてきたからだ、といつも自負していただけに、母と同じように肺をやられたと知ってがっかりしたのでしょう。

 それでも、発病して平均4年の命と言われる肺繊維症をかかえながら、7年を経過し、同じ肺ではあるが間質性肺炎と院内感染による細菌の複合的な感染、それに致命的に衰弱していた腎臓炎などによる衰弱が直接の引き金となって亡くなりました。

 その一月前まで、咳はしながらも苦しくないと言って、毎日外出し、碁会所へ通い、川べりの散歩も毎日欠かしませんでした。医者に腎臓や糖尿病の進行のため色々禁じられていたでしょうに、最後まで好きなものを食べて過しました。

 

 ある朝、「きょうは散歩にもいけないくらいしんどい」と電話があり、急遽病院に連れて行く と、即入院。それから1ヶ月、ベッドから一度も降りることなく亡くなりました。父らしいあっさりとした、見事な死に方だったと思います。

 なくなってから、家を整理すると、亡くなる直前まで細かに収支を記録し、毎年の収支も細かくつけていたことが分かりました。老後はもう好きなようにしようと思っていたらしく、私たちが驚くほどの出費額でした。そういえば退職後は毎年海外へ出かけていたなあと思ったものです。

 父には子孫に美田を残さず、という儒教的な思想が身についていました。以前にはかなり持っていた株もきれいさっぱり売り払っていて、平社員から貧乏会社で一 生勤め上げたサラリーマンらしく、本当に資産といえるものは、自分たちが老後に住み、いま次男が住む家のほかにほとんど何もなかったのです。たぶん若い頃のドラ息子に半分くらい、あとの半分をやっと老後の自分たちの楽しみに使ってしまったのでしょう。それはとても気持ちのいい生き方だと思いました。
 
 父の座右の銘は「青山いたるところにあり」でした。それは大陸を放浪していた頃に身についた思想だと、生前に聞いたおぼえがあります。

 

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