それは「理」のひとつ。
努力は報われる。
あなたの「努力の理由」、
「得たかった結果」が達成されなかったその瞬間は、過去の選択のいくつかに何度も後悔して、
だけど何をしても悔やんでも結果は変わらない、今さらどうしようもないという現実を思い知るほど絶望して、
「全部無駄だった」と、嘆いて打ちひしがれるかもしれない。
だけどいつか、
喜びは喜びのままに、
達成感は達成感のままに、
逆に、
悲しみは悲しみのまま、
後悔は後悔のままに、
それぞれの形がそのままであっても、
違うものに変わっていたとしても、
報われたくて頑張って報われた嬉しさも、
どうやっても報われなかった悔しさも、
何もかもに、「ああ、そうか」と、あなたなりの「納得」が見つかっていく。
それでも、やっぱり、あなたの努力は報われる。
あなたがそう生きた結果、
そのとき「そのように」そこにいた、
その時間が、経験があるあなたが創る道が、その後も続いていって、
時々、「ああ、あのおかげだ」と、過去の悲しみや悔しさが報われる喜びを得られるのかもしれないし、
それを成功につなげられない悔しさや後悔をまた、経験させられるかもしれない。
なんであれ、どうであれ、結局私たちは、どっちの経験も、どんな経験も「報われている」。
「報われる」のではなく、
「報われている」。
それは、
「ただ、そうである」という「理」のひとつ。
それは、
「原因と結果」よりももっと、大きな範囲でのお話。