自分の正解を探して行きつく結論は。
スピリチュアルって、目に見えない、耳で聴こえない、触れないことを扱います。
例えばコーヒーカップとかなら、そこにあれば誰でも見えるし触れます。
そこにコーヒーカップがあることを、証明しなくても誰も疑いません。
でも、スピリチュアルで言うこと、リーディングで分かること、それは、私たちの五感で直接感じることができないもの。
すべての人と同じように共有できない、ひとりひとりの感覚、心の内で感じることだからです。
神様や天使や、
亡くなった人、
悪魔や悪霊と言われるもの、
宇宙人、
アカシックレコード、
それらは、スピリチュアル界では「ある」とされているけれど、今のところは、科学的、医学的に反復したり数値化して証明することができません。
みんなが同じように見えたり聞こえたり触ったりできないものを「ある」と言うのって、だから、自分の感覚だけが頼りです。
私たちはこれまでずっと、目に見えるもの、聞こえたり触れるものだけを信じて、「それだけが現実」という世界に生きてきました。
本当はみんな、それだけじゃないってことを感覚的に分かっているけれど、
実際に誰もが五感で共有できないものについては「あることにしない」という暗黙の了解のなかで、私たちは「世界」を保ってきました。
以前、シータヒーリングのアナトミーセミナー中に、受講生同士でこういう話題になったことがありました。
「統合失調症」の人の特徴と、スピリチュアルな人たちの特徴って、似てるんじゃないか、って。
「私たちが今やっていること、リーディングやチャネリング的なこと、そこで感じることが本当だって、自分がそういう病気じゃないってなぜ言えるの?」
みたいな、みんなが漠然と持っていた不安とか、とまどいとか、そういう話。
「自分の感覚を信じる」ってもちろん大事だし必要だけれど、
こういう疑い、「自分に対する客観的な視点」をいつも持っていることって、そういう感覚の精度を高めるのには必要だと私は考えています。
自分が感じている「それ」は自分だけのもので、自分以外の人と同じではなく、
感じたことの解釈には、自身の思い込みが入っている可能性が常にある。
その視点があるかないかが、病気かそうでないかの違いじゃないかと。
「自分の感覚に対する客観視」
この感覚、視点があることが、リーディングやチャネリング、ヒーリングが、ひとりよがりの思い込みになるのを防ぐ、精度を上げるために必要だと思います。
ヒーリングやチャネリング、リーディング、そういうスピリチュアルなことを学ぶって、自分の内に答えを見つけて、それを信頼する訓練みたいなものです。
自分の外に答えはなくて、誰も正解を教えてくれないし、教えられない。
正解は人の数だけあって、
だから、誰もが、「自分にとっての正解」を自分で見つけていくしかない。
だけど結局、自分の正解を探して行きつく結論は、どれも正しいのです。
何をしてもしなくても、
何を選んでも選ばなくても、
全部が正解で、
全部それでいいんだと分かってしまう。
だからいつでも、
「自分はどうしたいのか」
「自分はどうするのか」
しか、ないんだなって、
正しいも間違いも、
成功も失敗も、
どんな感情でいるのかも、
すべて決めるのは自分なのだと、知るのです。