本日鑑賞した映画は
新たな胸糞映画としても名高い
『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイグリッド・ディア』
公開日:2018年3月3日
上映時間:121分
心臓外科医のスティーブンは、妻と二人の子と共に
豪邸で幸せな生活を送っていた。
しかし、スティーブンは家族に隠れて青年 マーティンと会う日々を送る。
とある日、スティーブンはマーティンを家に招くのだったが
それが悲劇の始まりだった。
第70回カンヌ国際映画祭で脚本賞に輝いたスリラー作品。
家族を悲劇に堕とし入れる青年 マーティンを演じる
バリー・コーガンの怪演と
クラシカル且つ不気味さ極まりない
ヨルゴス・ランティモス監督の演出が光る。
最近映画を観る際に、あらすじを頭に入れるだけでなく、
「意味の分からないタイトル」がつく作品に関しては
ネタバレに触れない程度に調べるようにしているわけですが、
この作品はタイトルの意味=作品のインスパイアもとを
知っておくに越したことのない作品となっていました。
まず、面白い作品は大概ファーストショットが
テーマや物語の説明になっていることが多いように見受けられます。
最近見た映画『CLIMAX クライマックス』(2019)も
オープニングでサバイバル劇であることが匂わされているし、
映画『3-4x10月』(1990)に関しては、
今考えるとネタバレにも等しいとすら思えるほどだ。
※『3-4x10月』に関しては考察によって異なるかもですが...
最初に目に入る映像は、そのインパクトを持ってして
観客に印象付けることができるからだと思っているわけですが(笑)
そんなことも相まって、最近はファーストカットを注視するようにしているのですが、
この作品のファーストカットは語り、演出共に素晴らしいものでした。
何が映されるのかは言いませんが、そのインパクトある映像は
本作が「ひとつの命に纏わる物語」であることも物語ります。
また、一度画面を真っ黒に落とし、観客の意識を集めた後で、
映像を映し出す=ファーストショットを見せるという『焦らし演出』は、
ただでさえ強烈な「それ」を一層インパクトづけており、
また「それ」は強烈に「命」を物語るため、
誰が見ても「ひとつの命に纏わる物語」であることが明白になっています。
本作は、家族と幸せに暮らす外科医 スティーブンが
青年 マーティンを家に招いたことを気に
悲劇と不条理に苦しめられるというスリラーとなっております。
ある人物を招いたことで幸せな家族が悲劇に直面するという展開には
「ファニーゲーム」(1997)を彷彿としたり、
青年 スティーブンの人の良さに騙されてしまうという部分には
「エスター」(2009)を思い浮かべたりしたのですが、
これが全く違う映画作品となっていました。
スティーブンの厚意でマーティンと家族が出会ってしまったことを気に、
家族には異変が起こっていきます。
簡単に言えば「死へのカウントダウン」です。
スティーブンはそれらの異変がスティーブンの仕業であると察し、
彼を攻め立てるとあっさりと認め、彼は言います。
「犠牲にする1人を選べばすべて治まる」と。
ネタバレを極力避けるためここまでにしておきますが、
本作は一種の「呪い」的なものに苦しめられる家族と
奇妙な青年との物語となっているわけですが、
ここで重要なのが、
ギリシャ悲劇「アウリスのイピゲネイア」となっております。
この話に関して話すとネタバレになってしまうので避けますが、
この話を知っているか知っていないかで
印象が変わってくる物語だといって過言ではないでしょう。
時間が経過するとともに
スティーブンはマーティンから家族を守り切ることができるのか?
という物語に転がっていくのですが、
クライマックスではこの上ない悲劇に家族は直面することになります。
その絶望的、救いようのない結末は
作品を「胸糞映画」たる存在に確かにしているわけですが、
個人的には全く胸糞映画には思えませんでした。
というよりも、爽快感すら感じてしまったわけです。
マーティンとは何者なのか?
スティーブンとの関係とはなんなのか?
というミステリーは物語の序盤で明かされ、
そのハートウォーミングにも思える関係性には温かさすら感じるのですが、
時間が経過するとともに、ある事実が判明することを機に
「支配するか」「支配されるか」の関係に変わっていきます。
「マーティンに呪われるスティーブンと家族」という
ありきたりにも思えた物語が、
「地位に驕った支配者に反旗を翻す弱者」といったような
深度の深い、一種の革命劇へと一変していく本作はかなり面白く、
どっちが主導権を握るのかという物語に夢中になってしまいました。
クライマックスでスティーブンとその家族は
残酷極まりない悲劇を一種強要されるわけですが、
真の○○意識もなく、地位を譲ろうとしないスティーブンの姿に
個人的には嫌悪感を抱いてしまったので爽快にも思えました。
大罪を免れた政治家がついに裁かれる時のような爽快感にも似た。
そして、面白いのがラストなわけです。
まさに『負の連鎖は絶えず続く』と言わんばかりの結末、
それを物語る家族の表情の映画的な語りと言ったら、最高です。
また、面白いのがマーティンという特異なキャラクター性。
演じるバリー・コーガンの怪演、「静なる狂気」はもう見てとしか言えませんが、
彼の「フェアプレイ精神」、その美学を貫く言動には
この上ない不気味さとヒーロー性も感じてしまいました。
「何かをされたら何かをする」「何かをしたら何かを自らにかす」
と等価交換にも近い行動を見せていくマーティンの姿は
やっていることがやっていることだけに不気味極まりないのですが、
反して彼の「純粋さ」固有の「正義感」が醸されてもいます。
オープニングの「ひとつの命を巡った物語」というのも、
この彼のフェアプレイ精神があることでより明確なものとなっていた印象でした。
考察し甲斐があり、
観る人の価値観や観方によって「善悪」がひっくり変えるとも思われる本作の
深度の深い物語はとにかく面白いものでした。
そして、最後に言わせてください。
ヨルゴス・ランティモス監督の演出!
特にカメラワークと音響効果は素晴らしいものでした。
「カメラマンの存在を感じさせるからズームは使うな!」
よく映画学校時代に怒られた記憶があるのですが、
そのズームを見事に使い、不気味に仕上げた作品だと思います。
本作ではオープニングはズームアウトショットであり、
クライマックスの悲劇の終わりはズームインショット。
こんな作品観たことない程にズームイン、アウトが多用されていくわけですが、
それは『何者かが見ている』または『何者かに見られている』ような
不気味さを醸してきます。まさに、悪魔に呪われているような。
クラシック映画にはこのズーム演出が多い印象を受けており、
たびたび「不気味だなー」と思っていたのですが、
改めてズーム演出の面白さを味わうことができました。
そして、音楽=劇伴ですね。
シーンとしても派手なものはなく、
マーティンに苦しめられる家族の描写も
異様なほどに抑え目なのですが、
それに反して強烈に掻き鳴らされて行くのが劇伴です。
映される人間が抑え込もうとする悲しみや苦しみといった感情、
その激しさを画や役者の演技ではなく、
音楽を用いて強烈に表現していく部分もまた不気味であり、
説明しすぎないという部分においてはクールでもありました。
一つ個人的に欲するとするなら、
マーティンの住む家がもっとみすぼらしかったら最高だったな~と。
それこそ、ちょっと格差社会というか
社会構造のメタファーにもなったのかなと思ったり。
とはいえ、かなり面白いスリラー作品でした。
人によって作品の捉え方が変わるだろう作品だと思うので、
みんなで見てディベートするのも楽しいかもです!
もちろん観終わった後は、そんな気にもならないでしょうが(笑)