日本と台湾の関係史 | 狭山与太郎のどですかでん

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先日の能登の地震では台湾から25億円もの義援金がいち早く日本に贈られました。

台湾は日清戦争後の下関条約で日本に割譲され、終戦まで日本の統治下に置かれましたが韓国や中国とは違って親日的と言われています。

5年ほど前にツアーで台湾を旅行したことがありますが、その時のツアーガイドは大変な日本贔屓で毎年のように日本各地を私費で旅行していると言っていました。

親日的なのも蒋介石の国民党支配下の台湾では台湾の近現代史の教育はタブーとされ日本統治下の台湾の歴史を知らない台湾人たちが多いという証かもしれません。

 

先日台湾の総統選挙がニュースで大きく伝えられましたが私を含めて日本国民は台湾の事を殆ど知りません。

学校では中国や朝鮮の歴史は習っても台湾の歴史について習った記憶はありません。忘れてるだけかもしれんけど…

台湾を旅行したときはあまりにも自分が台湾のことについて無知であったことを思い知らされました。

政府もマスゴミも歴史的な日本と台湾との関係について敢えて知られない様に触れないようにしているのじゃないでしょうか

 

日清戦争後の下関条約によって台湾が日本に割譲され、1895年日本軍が台湾に上陸した時に清国の残兵や一部の台湾住民が抵抗し乙未戦争が起こっています。

(1895年の干支が「乙未乙未(きのとひつじ、いつび)は、干支の一つ。干支の組み合わせの32番目)

同じ1895年には李氏朝鮮で閔妃暗殺事件(びんひあんさつじけん)が発生しており、こちらは乙未(いつび)事変と言われて非常に紛らわしい。

 

この台湾での乙未戦争では日本は約76.000人の兵力(軍人約5万、軍夫26.000人)を投入、死傷者5.320名(戦死者164名、病死者4642名、負傷者514名)、さらに軍夫7000人の死者を出し、台湾民主国軍をはじめとする抵抗勢力は義勇兵・住民あわせて14000人の死者を出したとされます。

因みに、軍夫とは、兵隊とともに戦場へ行って荷物の運搬などをした人たちのことです。

戦死者よりも病死者が多くその大部分は赤痢、マラリア、脚気など風土や衛生状態、栄養状態などによる病死が大半でその後の太平洋戦争の犠牲者を暗示するようでもあります。

又、兵士よりもその兵站を担った軍夫の方が犠牲者が多いというのも注目に値します。

 

翌年1896年には日本の守備隊がゲリラの待ち伏せ攻撃に会い死傷者が出るとゲリラを匿ったと目される村を焼き払い住民を無差別に約6.000人を殺害した雲林虐殺事件が起きています。

まるで現在のガザでのイスラエル軍みたいなことを嘗て日本もやっていたわけです。

 

その後1930年(昭和5年)10月27日には日本統治時代の台湾の台中州能高郡霧社(現:南投県仁愛郷)では「霧社事件」が発生しました。

この事件では台湾先住民700人ほどが犠牲になっています。

「霧社事件」は日本統治下の台湾でその統治に怒りを鬱積した台湾の少数民族セデック族が蜂起したという抗日反乱事件です。

当時日本国民の感情や意識に民族差別主義や植民地主義が蔓延しており、台湾人のことを「土人」とか「土匪」などと称し、現地では圧政暴虐が横行し頻繁に反日抵抗運動が発生していたことが伝えられています。

関東大震災の時の朝鮮人虐殺やパリ万博及び1903年の大阪内国勧業博覧会での学術人類館の「人間動物園」展示も根底にはそのような意識が働いていたということでしょう。

万博が抱える黒歴史「人間動物園」…120年前の大阪で起きた「事件」と2025年大阪万博の相似形とは:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

 

慰安婦問題や徴用工問題を認めようとしない政府を容認している日本国民も基本的には100年前と何も変わっていず、未だに意識の底にはアジア人に対する優越意識と差別意識、欧米人に対するコンプレックスが同居したままとなっています。

名古屋入管でのウイシュマーさん死亡事件もその一例なのでしょう。

アジア人の難民に対する姿勢もウクライナからの避難民受け入れとはあまりにも待遇や対応が違っているのは未だにそれが続いているということです。