2020.2/24 高野切第三種 よみひと知らず あはれてふ言の葉ごとに置く露は | サワラ君の日誌

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僕65歳。隠遁生活。飼い猫14歳。家猫生活。

『書道技法講座10 高野切第三種』(植村和堂編/二玄社)より選句、習字

 

あはれてふことのはごとにおくつゆはむかしをこふるなみだなりけり

よみひと知らず

あはれてふ言の葉ごとに置く露は昔を恋ふる涙なりけり

『あわれ』という『言の葉』ごとに置く露は昔を恋しく思う涙なのです

Dew to be placed in each of the words, "Aware"

They are tears that miss the old days.

 

 あわれをネット辞書検索すると、賞賛、喜び、愛惜、悲しみなどの感動を表す言葉とある。

 言葉は、どうして葉という漢字を使うのだろうか?

 因みに、「古今和歌集仮名序」では、「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」とし、和歌は、人の心を種として、よろずの言の葉となっているものだと述べている。しかし、これでは、疑問の明確な解答にならない。しばらく、眺めていると、『万の言の葉』が目にとまった。どこかで見たことのあるような。そうだ、『万葉集』。
 『万葉集』の「葉」はなんだろう?と思ってさらにネット検索すると、「万葉集注釈」を書いた鎌倉時代の仙覚という僧侶が、「たくさんの言の葉(和歌)を集めたもの」と解釈しているとのこと。しかし、これも、疑問の明確な解答になっていない。

 ここから先は想像であるが、昔の人、少なくとも万葉集と古今和歌集の編纂者は、ことばを植物にたとえて、ことの『葉』とした、さらに古今和歌集の場合、心を『種』、ことばを『(ことの)葉』ととらえたというあたりか。

 『(ことの)葉』に置く露は、涙ということは理解できた。要するに、あはれという言葉を発して涙することを、言葉⇒葉⇒露⇒涙と遠回りしてみせたということのようだ。

 

 

 

 今日から、高野切り第3種。能書家、藤原公経(きんつね)が書いたものとみられている。高野切は、現存する最古の古今集の写本で、高野切を書かせたのは、藤原頼道(藤原道長の子で、宇治の平等院を建立)。高野切は、近衛家に代々伝わるが、切れ切れになり、いろいろな人の手に渡り、今日に至る。

 高野切り第三首は、昔、小学校でならったひらがなに近く、書きやすい。しかし、第二種の方が大人びた字体で、品格があるように思われる。