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イエスの譬え話

キリストの実物教訓第一章より抜粋要約 

 

キリストのたとえの中には、キリストご自身がこの世界に対して持っておられた使命と同じ原則を見ることができる。

 

キリストは、私たちの性質をとって私たちの間にお住みになったのは、キリストが持っておられた神の性質と命とを、人間が知るためであった。

 

つまり、神性が人性の中に啓示されたのである。

目に見えない栄光が、人間の姿の中にあらわされたのであった。

 

 

人々が1番よく知っている地上のことによって、神の真理が明らかにされたのである。

 

マタイ13.34-35には

「わたしは口を開いて譬えを語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」と書いてある。

イエス様が譬え話を語る理由が明らかにされている。

 

自然界のものや、聴衆の人生経験が御言葉の真理に結びつけられた。

このように、キリストのたとえは、自然界から霊的な世界へと導き、地を天と結びつける真理の鎖の環である。

 

 

 

 

全ての造られたものは、初めの完全な状態にあった時、神の思想を表現していた。

自然界は神の知識と神の教訓に満ちていた。

 

ところが、人類の最初の夫婦アダムとエバが、神の律法を犯すや否や、地球は罪に損なわれてしまった。

それでも、正しく理解しさえすれば、自然は創造者について語るのである。

 

 

しかし、人々は神の御業である自然を見ても、神を認めることはほとんどできなくなっていた。

そして、自然は、神をあらわすのではなくて、かえって神を隠す障害物となってしまった。

 

つまり、人々は「創造者の代わりに被造物を拝」むようになったのである。

パウロは、「人の思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである」(ローマ1.21と1.25)

 

同様に、イスラエルの国でも、神の教えの代わりに人間の教えが人々に強いられた。

神を啓示するために与えられた犠牲制度と聖書自身までが非常に歪められて、神を隠す手段とまでなっていたのであった。

 

 

 

キリストはこのように真理を覆い隠していたものを取り除こうとされた。

キリストが来られたのは、罪が自然の上に投げかけた幕を開いて、万物が造られた時に反映することになっていた霊的栄光をあらわすためであった。

 

キリストは自然界を通しても、ご自分が野の花や草に託された使命を解き明かされたのであった。

 

 

しかし、キリストが平易に語られた真理は、「見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らなかったので多くの人の心に根を下ろすには至らず」「だから譬え」で語られたのであった。

 

イエスは全ての人の心に通じる道をお探しになって、さまざまな例話を用いて、真理の種々な面を説明なさり、異なった聴衆に訴えられたのであった。

 

それから、イエスが譬えによって話された理由は他にもあった。イエスの周りに集まった群衆の中には、祭司、ラビ、律法学者、長老、ヘロデ党の者、会堂の司、俗人、頑固者、野心家などがいて、なんとかしてイエスを訴える言いがかりを見つけようとしていたからである。

イエスはそれを心得ておられて、彼らがサンヒドリンの議会にイエスを告訴出来るようなことは何一つ言わないようにして真理を説かれたのであった。

 

こうしてイエスはスパイにはなんの手掛かりも与えないでおきながら、真理を明らかにして、誤りをはっきり示されたので、真面目な人はイエスの教えによって啓発されるところが多かったのであった。

 

 

救い主の譬え話には真の高等教育がなんであるかが示されている。

キリストは、人間の心を無限の神の心に接触させるようになさった。

人間の品性の向上に必要なもの、神を知る能力を高め、善を行う力を増すものを扱われて、人々の日常生活の行いや永遠に関する真理について語られたのであった。

 

私たちも同様に、自然を通じて、創造主を知らなければならない。

自然という書物は一大教科書であり、聖書と共に用いなければならない。

神の御業を研究すると、聖霊が人の心に確信を与えるからです。

自然は常に、私たちの創造主であり、贖い主イエスを思い起こさせます。

 

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マラナ・タ

エレン・G・ホワイトの「キリストの実物教訓」ほか、

聖書の解説書は、実に霊に満ちていて、神さまの真意を知るために有益です。