ごきげんよう!さわこです 

 

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ピリピ2:16

「このようにして、キリストの日に、

私は自分の走ったことが無駄ではなく、

労したことも無駄ではなかったと誇ることができる」

 

「キリストの日に」とは、

ご再臨と天国に入る日と考えています。

 

「わたしは、自分の走ったこと」とは、

パウロは、キリストと共に生き、

十字架のキリストを宣べ伝えるために命を懸けました。

多くの艱難辛苦もあったその生きざまを「走った」と書いています。

 

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そうした自分の生き方のすべてが

「無駄」ではなかったと、肯定しているのです。

 

あのことも、このことも、この時のためであった。

あのつらいことも、この苦しかったことも、

死の陰の谷を歩いた日々も禍を恐れなかったのは、

イエスが共にいてくださったから、

イエス様のお陰であったから、

とパウロは考えていたからです。

 

いまは、そのように思えなくても、キリストの日には

ご再臨の主にまみえるという確証を持っているから、

パウロは、自己肯定感が高いのです。

 

 

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私にとっては「詩編73篇17節」も

主キリストに まみえる希望の御言葉です。

 

73篇はアサフの歌です。

アサフは、ダビデやソロモンの時代に仕えた著名な讃美リーダーであり、

詩編の50篇、及び73篇~83篇、合計12篇の作者として知られていました。

 

ダビデ王に仕え、楽器を巧みに演奏し、

ダビデの書いた詩編に音楽を添えた優れた作曲家だということでした。

彼の書いた詩編のいくつかはアサフの子供たちが書いたとも一般的に言われています。

つまり、その子供たちも作詞、作曲、演奏の賜物があって、

礼拝をリードするため、ダビデやソロモン王に仕えていた音楽一家でした。

 

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我が教会の安息日礼拝の奏楽担当者がたを思いました。

奏学者は礼拝をリードするお役目がありますから、技術だけでなく信仰が問われるのです。

技術が高いというだけではなく、聖霊様のお示しによらなくてはなりません。

 

73篇から一部分を要約します。

 

「悪しき者が常に安らかで、その富が増し加わるのに、

心を浄め罪を犯すことのないようにこころがけている者が

なぜ、ひねもす打たれ、朝毎に懲らしめを受けるのだろうか」

 

と、思い巡らせていた時に、アサフは、

幻によって神様から天の聖所を見せてもらうのです。

 

自分の足が躓き、自分の歩みが滑るばかりの時、

アサフは、悪しき者の栄を見てねたむ思いが噴出し、

そんな自分の卑しさに苦しみました。

 

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しかし、

信仰者らしく見せようとするのではなく、

卑しい自分を隠すのではなく、その罪なる醜い思いを、

主の御前に差し出したのです。

 

安息日ごとに礼拝をしている聖所は天国のひな型であります。

 

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アサウだけではありません。

ダビデも嘆きの詩編を書きました。

呪いの詩編を書きました。

神の前に自分の卑しさを取り繕うことなく

ありのままの醜さを携えて聖所に入った時、

 

そこで、高慢の首飾りと暴虐の衣で身を包んだ者たちの行く末を、

アサフは幻で見せてもらったのです。

アサウの徒労と見える重い心の思いは解決したのです。

こうして、私の霊を慰めて希望を与えてくれたのは

詩編73篇の17節でした。

 

口語訳では

「わたしが神の聖所に行って、彼らの最期の悟りを得たまではそうであった」

「悟り得た」では、分かりにくいかもしれません。

 

最新の協会共同訳では、

 「そしてついに神の聖所に入り、彼らの行く末を悟った」

 

新共同訳では

「ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた」

 

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地上の聖所は、天の聖所を写したひな型です。

 

この聖句から、神は正しい裁きを行われて、罪を完全に滅ぼしなさる。

神の義と愛の完全な顕われを見ることができる。知ることができる。

 

そうなのだ・・・私が天国に行ったときには、

この地上人生で納得できなかったあらゆる理不尽が、納得できるのだ。

難問が解決するのだ。と思えたのでした。

ようやく、天国に行きたいと切実に思えるようになったのでした。

 

詩編73篇は、歴史を通して多くの人に愛されてきた詩篇です。

なぜなら、神に従って歩もうとしたすべての人が

必ずどこかで体験する葛藤を正直に描き、

正しい現実に引き戻してくれるからです。

 

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正しい現実とは、

イエス様が常に共にそばにいてくださることで、見える世界です。

この世の中を、この世の肉なる視点で見る景色と、神の目線で見る景色とは異なります。

 

私にとっての「キリストの日」とは、

今、毎日、日々寸々、一分一秒、

キリストと共にいることがキリストの日。

その連続性の中に、わが身を置く時、走ったこと、

労したことにも、キリストの故に、

キリストにあって、無駄ではなくなる。

意味がある。空しいものではなくなる。

 

ピリピ2章16節のパウロの心情が私の心情に重なります。

 

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マラナ・タ

「このようにして、キリストの日に、

私は自分の走ったことが無駄ではなく、

労したことも無駄ではなかったと

誇ることができる」ピリピ2:16