ごきげんよう!さわこです
ペテロの第一の手紙5章5節
「互いに謙遜を身につけなさい。
なぜなら
『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』
からです」
 
この御言葉からの古屋さんのメッセージを読みました。
分かち合いをさせて頂きます。

 

 

私達が思っている謙遜と、聖書が教える謙遜とは似ているようで全く違うものです。
 
日本語では、謙遜とは控えめで慎ましく…というような意味であり、又、自分の能力を低く評価するという意味もあります。
 
それでは聖書のいう謙遜とはなんでしょうか?
 
マタイ20:26に『あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり…』と書かれてます。
イエス様は最後の晩餐の席で、奴隷の仕事である弟子達の足を洗う事で謙遜を表されました。
 
高慢とは自分自身を他の誰よりも重要だと考えます。
又高ぶる人は自分に信頼し、自分に栄光を帰します。
それに比べ謙遜な人は神に信頼し、神に栄光を帰します。
 
 
神様の恵みは丁度、水が高い所から低い所に流れるように天の御座から低い所つまり謙遜な者に流れます。
 
「木の実を食べると神のようになる」とサタンはエバを誘惑しましたが、これは神を必要とせず自分の知恵と思いで生きていく事を意味しました。
 
これが罪の本質であり、罪が入ってきたのも神のようになりたいという高ぶりからでした。
 
私達は傷つけられるとカチンときて心が傷つく事があります。心のどこかに高慢が潜んでいるので低くされると腹が立つわけです。ですから、最初から自分を低い所に置いていれば何を言われても傷つく事はないはずです。
 
 私達が謙遜になるという事は身を低めて神様の御心を受け入れる事です。私達の高慢さが神様の働きを邪魔してしまう事のないようにしたいものです。
 
『主の前に謙りなさい。そうすれば、主があなた方を高めて下さいます。』ヤコブ4:10
 
                            古屋良子
 
アーメン!
古屋さん、ありがとうございます。
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ペトロの手紙第一5章6節には、このように続きます。
「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めて頂けます。」
 
かの時、とは、いつの時を言うのでしょうか?
 
キリスト者は、キリストの再臨の時であると知っています。
私たちの日々は、この地上の歴史は、キリストの再臨に向かって展開しているのです。
 
かの時、再臨の時までの期間が実質的な私たちの品性が(性質・心・人格・精神・動機)神様の御目に叶う者とまでに成長し、天国に住まうに相応しい者と神様の御心によって、造り替えて(高めて)いただける猶予期間なのです。
 
ノアの箱舟の扉が閉じるまで、雨は降り始めませんでした。
雨が降って来たのに気がついて、ノアさんの言っていた通りだと箱舟に入ろうとしても、扉は既に神の御手により固く閉じられていたのです。ノアの箱舟の出来事もまた、終末期の預言とも読むことができます。
 
その時に、瞬時、反省しても後悔しても、間に合いません。
「後悔先に立たず」「後の祭り」の格言を思います。
 
箱船の建設には120年を要しました。
ノアは120年間、雨が降ることを警告して来ました。最後の最後までノアを嘲笑い軽蔑していた高慢な心の人々は、ノアの宣教のための必死の声にも働きにも、危機感を持つことなく、「飲み食い娶りなどしていた」のです。
 
箱船の扉が閉じる時、恵みの扉が閉じる時は必ず来ます。
その日、かの日は迫っています。
 
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マラナ・タ
主イエスよ、来たりませ。
その日、その時とは、
イエス様の御再臨なさる日