ごきげんよう!さわこです。
あいも変わらず、ヘブライ書1章にとどまっています。
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、
取り残されてしまったと思われる者が
あなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
というのは、わたしたちにも彼ら同様に
福音が告げ知らされているからです。
けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。
その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです。
(ヘブライ4:1-3 上句)
読んだ御言葉を私はどう読んでいるのか?
信仰によって結びつく読み方をしているか?
ルカによる福音書10章は、かの有名な善きサマリヤ人の譬えのお話です。
ルカ10:26
イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われる・・・
手前の25節に戻りましょう。
すると、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った。
「先生、何をしたら永遠の命が受けられましょうか」
律法学者のこの質問への答えが、26節なのです。
ユダヤ人たちは「永遠の命」を求めていることがわかります。
秦の始皇帝は、不老不死の薬を求めて、その命令によって日本にまで使いがやってきたとは聞いていますが。
日本人はどうでしょうか?
少なくとも、私は永遠の命があるとは考えたこともなかったです。
幼少時、お風呂は祖父と一緒でした。
子どもを早くお風呂に入れてしまいたい母は、「おじいちゃんと一緒に入りなさい」と言うのでした。
祖父はそっけない人で戦前の元小学教師。
そっけない祖父が体を洗ってくれて、私は祖父の背中を流して、祖父はお話をしてくれました。
悪いことをしたら地獄に行くとか、ウソをついたら閻魔様に舌を抜かれるとか、
善い子でいたら極楽にいけるのだとか。
そして、昔の日本は強かった、と日清日露の戦争を話してくれました。
居間には、日本文学全集と、戦前戦中の世界地図が一冊置かれていました。
その世界地図は、戦前の日本の領土が赤くなっていました。
ふだんはそっけない祖父が、お話をしてくれたのはお風呂の時だけだったような記憶があります。
祖父母の長男(私の伯父)は、海軍兵学校出の軍人でした。
ソロモン海夜戦で戦死しました。砲術長をしていたそうです。
振り返れば、祖父は、教育勅語的な修身教育をお風呂場で孫娘にしたのかもしれません。
そういう次第で、私は「永遠の命に憧れる」ことなく、日本人のアイデンティが育まれました。
GHQの、日教組の教育史観が入る前に、戦前の愛国教育を受けていたのは幸運だったのかもしれません。
ですから、よい子でいて極楽に行きましょう、と言うシンプルな道徳的家庭教育は、昭和30年代には日本のどこでもそうだったのかもしれません。
だから、私は「救われたい」とか「地獄に行くのが怖い」「永遠に生きたい」「死ぬのが怖い」とかを考えたりしませんでした。
私はやがてキリスト教を信じる者となりましたが、
「天国に行きたい」「永遠の命を頂きたい」「死ぬのが怖い」「救われたい」など、そういう理由で信者になったのではありません。
自分の心の拠り所を求めていたのです。
祖父の話だけでは、満たされることのない渇きがあったのです。
聖書の三位一体の神様に私は見つけていただいたけだと思います。
詩編39:13、14
主は天から見渡し、人の子らを一人一人御覧になり、御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる
聖書の中の、ひとつの聖句に躓く人がいる。
ある人には希望の聖句が、誰にでも希望になるとは限らない。
肝心なのは、どう読んでいるか?だ。
イザヤ53章は、主の僕の苦難と死を記したメシア預言だとクリスチャンは読みますが、ユダヤ教徒は、苦難の僕はナザレのイエスではないと。イエスなる名前はいくらでもある。クリスチャンが御子なる神イエスと決め込んでいるが、ユダヤ教徒はそうは読まない。苦難の僕・彼とは、ユダヤ民族を指している、と言っているのを聞きました。
イエス様は善きサマリヤ人のお話をなさいました。
さらにイエス様は、「読んだことを実行しなさい」と言われました。
マラナ・タ
キリストの御霊よ、私に実行する力を与えてください。
信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。