ごきげんよう!さわこです
ヘブライ人への手紙4章を読んでいました。
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。
けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。
その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです。
信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。
(ヘブライ4:1-3 上句)
神に救われたと証する人の側で、神に見棄てられたごとき思いに囚われている人もいます。
私は救われてはいないと、救われたい、と言う人が何十年来の信者の中にいるのです。
何故、バプテスマにあずかりながら、教会から離れて行き、信仰から遠のいて行く人がいるのか?
ヘブライ4章1節2節に、この疑問に対する答えがあることに昨日、気がつきました。
読んだ御言葉を私はどう読んでいるのか?
信仰によって結びつく読み方をしているか?
イエス様の問いかけが思い出されました。
ルカによる福音書10章の「善きサマリヤ人」の箇所です。
ルカ10:26
イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われる
ひとつの聖句に躓くことがある。
ある人には希望の聖句が、誰にでも希望になるとは限らない。
肝心なのは、どう読んでいるか?だ。
イザヤ53章は、主の僕の苦難と死を記したメシア預言だとクリスチャンは読みますが、
ユダヤ教徒は、苦難の僕はナザレのイエスではないと。
イエスなる名前はいくらでもあると。
クリスチャンは御子なる神イエスと決め込んでいるが、ユダヤ教徒はそうは読まない。
苦難の僕・彼とは、ユダヤ民族を指している、と言っているのをYouTubeで聞きました。
ユダヤ民族のおかげで、残されて来た旧約聖書です。
しかし、同じ聖書を読みながら、理解の違いがあるのです。
さらにイエス様は、「読んだことを実行しなさい」と言われました。
ルカによる福音書10.28
「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」
祈りました。
キリストの御霊よ、私に実行する信仰の力を与えてください。
ユダヤ教徒は、新約聖書を読みません。
認めていません。
しかし、イエス様の時代には、新約聖書はありませんでしたから、イエス様の読まれたのは、「律法と預言者」つまり旧約聖書です。
キリスト教徒は、旧約聖書の預言の成就が新約聖書であると読んでいます。
しかし、唯一成就されていなくて、まだ待ち望んでいる預言があります。
それが、イエス様の再臨です。
私の属するキリスト教会の名前は
セブンスデー・アドベンチストキリスト教会
第七日目の安息日を礼拝日として守り、キリストの再臨を待ち望む民、という意味が教団名になっています。
信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。(ヘブライ4.3上句)
マラナ・タ
主イエスよ、来たりませ
終末期です。
キリスト様の再臨は近いです。