ごきげんよう!さわこです。

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文語訳で暗誦している「主の祈り」の中にある難度の高いこの祈り

「我らに負い目あるものを、我らが赦すごとく、我らの負い目をもゆるしたまえ」

エレン・ホワイト著「祝福の山」から理解を助けてもらいました。

青字は、その本からの引用です。

 

ルカ11:4

わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください」口語訳

「わたしたちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目ある人を皆赦しますから」新共同訳

 

イエスは、私たちが他の人々を赦す時にのみ、神からの赦しを受けることができるとお教えになっておられる。

私たちを神のもとに引き付けるのは、神の愛であり、その愛が私たちの心に触れる時、必ず兄弟に対する愛が生み出されるのである。

 

主の祈りを言い終わった後で、イエスは、

「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるしてくださるであろう。

もし人をゆるさないならば、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちをゆるしてくださらないであろう」

(マタイ6:14,15)と言われた。

 

赦さない者は、神の憐れみを受ける唯一の通路を遮断しているのである。

 

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私たちを傷つけた者が、その悪を告白しないならば、彼らをゆるさなくともよいと考えてはならない。

(悔い改めと告白することは、疑いなく彼らのなすべきことであるけれども)

 

しかし、私たちは、彼らがあやまちを告白してもいなくても、彼らに憐れみの心を持たなければならない。

私たちが、自分の罪をゆるされたいと神に望むのなら、私たちは、悪をなしてきた者を赦すべきである。

 

 

しかし私たちは、自分に危害を与えた(私に負債ある)者を赦すことができるだろうか?

例えば理由もなく家族が殺されたりした場合を考えてみたら、決して許すことなどできないと思うことは当然ではないか。

自力で許せると思うなら、それは自分の自然な心情を欺いていることになる。

赦すことは、自分の力ではできないのだ。心からの赦す思いは自分の内から生まれ出ることはない。

 

自分の力で、自分の努力でできると思うなら、自分を欺いているのである。自分を義とする思いです。

だから、イエス様は祈りの言葉をくださったのだ。

「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください」(ルカ11:4)

との祈りの言葉をイエスさまは私たちにお与えくださったのだ。

 

イエスは、私たちが他の人々を赦す時にのみ、自分が神からの赦しを受けることができるとお教えになっておられる。

私たちを神のもとに引き付けるのは、神の愛であり、その愛が私たちの心に触れる時、必ず兄弟に対する愛が生み出されるのである。

 

兄弟に対する愛が生み出されるとは、どういうことか?

私に害を加えた者、決して許すことができない者を「兄弟」とEGホワイトは書いている。

そういう人を兄弟と呼ぶことなどできようか?

 

しかし、神の愛が私たちの心に触れると、奇蹟が起きる。

親の仇(かたき)への愛を神様が湧きださせてくださるとイエスは言われるのです。

決して赦せない、と言うかたくなな感情を、神が取り去ってくださる。

 

自分の努力や頑張りで生み出すことができるものではない。

イエスの十字架の愛が、頑固な私たちの心を造り変えて、清い心としてくださる。

それは神秘です。それは不思議です。

 

心を変えるものは、あふれ出る贖罪的愛である

 

主の祈りを言い終わった後で、イエスは、こう言われました。

「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるしてくださるであろう。

もし人をゆるさないならば、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちをゆるしてくださらないであろう」(マタイ6:14,15)これは、神の国の原則なのです。

 

詩編51:10

「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい正しい霊を与えてください」とダビデは祈りました。

ダビデは赦しと言うことを正しく理解していました。

 

詩編103:12

「東が西から遠いように、主はわれらの咎をわれらから遠ざけられる」

 

神はキリストによって、ご自身をわたしたちの罪のためにお与えになった。

主イエスはわたしたちのために十字架で残酷な死を受け、わたしたちのために罪の重荷を負われたのであった。

 

神は、自分が神から憐れみを受けたのであるから、他の人々に自分が神から受けた神の恵みをあらわしなさい。

EGホワイトのこの言葉は、神に自己をささげるなら、あなたの心を神の御旨に適う者にふさわしく変えてあげようと言い換えることができるのではないか。

 

神はキリストによって、ご自身をわたしたちの罪のためにお与えになった。

主イエスはわたしたちのために十字架で残酷な死を受け、わたしたちのために罪の重荷を負われたのであった。

 

使徒パウロは、エペソの教会に向けてこう書きました。

エペソ4:32

「互いに情け深く、憐れみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたを赦してくださったように、あなたがたも互いにゆるしあいなさい」

 

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さらに分かりやすく書くならば、

「あなたがたの罪は、キリストの十字架にあって、あなたがたを赦してくださったのですよ。

だから、あなたがたは、神の贖罪の愛によって、赦すことができる者に造り替えてくださったのですよ。

あなたは、この神様の原則である神様からのギフトを受け取りますか?

赦さない思いを握りしめたままでは、その手に神からの赦しを受取ることができないのですよ。

さあ、赦せない思いを手放しなさい。手放すなら主である神なる私はその手に「神の贖罪の愛」を与えることができるのです。

赦せない思いに苦しむことからも解放してあげることができるのです」

 

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新約聖書「フィレモンへの手紙」18節、19節

「彼(オネシモ)があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。私が自分で払いましょう」

 

この手紙は、パウロのことばですが、キリストの贖罪愛を表しています。

パウロの心には、いつもイエスが住んでいました。

パウロはイエスと一体になっていたので、このような手紙を書くことができたのだと思います。

 

マラナ・タ

神に赦された者は、神の恵みによって赦せない人を赦すことができるようになる。

キリストの十字架の愛を受け入れる人に与えられるのです。