ごきげんよう!さわこです

 

 

 
アブラハムの子孫と自負して「ふさわしい」と自認する長老たちは、
ユダヤ人の会堂を建ててくれたからと言うことで百人隊長を、
イエスに紹介するに「ふさわしい」と考えている。
 
彼らは、父祖と預言者たちから伝えられて来た犠牲制度の象徴的意味を理解できていない。
 
ところが、異教の中に生まれ、ローマ帝国の偶像礼拝の中で教育を受け、軍人として訓練されて、霊的な生活から切り離されているかに見える百人隊長が、アブラハムの子らが盲目になっていた真理を認めたのだった。
 
イエスにとって、これは福音によって異邦人の中に成し遂げられる働きの前兆であった。
 
異教の暗黒の内にある魂が、神の恵みを受ける一方で、キリスト教国において、光を受けながら、これを無視する者がどんなに多いことだろう。
 
(各時代の希望 32章百卒長より抜粋)
 
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私がキリスト教を嫌いになった理由は、世界史の教科書からの知識だった。
中世の暗黒時代・大航海時代・植民地主義政策
この一連の出来事だった。
 
もちろん日本国内の政治形態にも問題はあった。
しかし、悪事のスケールが違う。
一国内のことではない、「キリストの名によって」はるか遠い他国に侵略していく大胆不敵さ。
中学高校生の私にとって、キリスト教国家のあり方が、我慢ならなかった。
そして、30代の半ば「預言の声聖書通信講座」(山形俊夫牧師著)で、聖書を学んだ時、目からうろこが落ちた。
 
欧米諸国の列強国家群のしたことの被害者であったのは、キリスト・イエスであったことが分かったのです。
 
そもそも、創世記にあれだけ明記されている安息日を日曜日に置き換えたことをはじめ、聖書とは違う神学を構築していったこと。
「神は愛なり」と叫んでも、慈善活動に励んでも、なんと空しいことだろう。
イエス様の嘆きがこだまする。
 
例えば、マタイ23:37、ルカ13:34
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打つ殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だがお前たちは応じようとしなかった」
 
もちろん、日曜日に礼拝をしていても、神の御目にかなうキリスト者たちも多くおられる。
他の宗教を信じていても、神の御目にかなう生き方をしてきた方も多くおられる。
 
マラナ・タ
そうした人々は「残りの民」として、神様は受け入れてくださる。
その根拠となる聖句は旧約にも新約にも出てきます。