ごきげんよう!さわこです
希望への光801頁より
この世の祝福を祈り求める時に、われわれの祈りに対する答えは遅れるかもしれない。
あるいは神はわれわれの求めるよりも他のものをお与えになるかもしれない。
しかし、罪からの救いを求める時にはそうではない。
われわれを罪からきよめて神の子とし、聖なる生活を送ることができるようにしてくださるのが神のみこころである。
主よ、教えてください。
ある二人の人が、同時にこの世の祝福を祈り始めました。一人はすぐに祈りに答えられました。
もう一人の人は、答えられないまま、10年、20年と過ぎました。
しかし、ふたりとも、罪からの救いを求める祈りはすぐに与えられました。
この違いはなんでしょうか?
「私たちが神に対して抱いている確信はこうである。すなわち、私たちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞いて下さると言うことである。」1ヨハネ5.14
つまり,聞かれた人は、神の御旨に従って願い,聞かれなかった人は、違っていたのでしょうか?
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義から私たちたちをきよめてくださる」1ヨハネ1.9
つまり、聞かれなかった人は、自分の罪を告白しなかったからでしょうか?
自分の罪を自覚していなかったのは、自分を義としていたからでしょうか?
マラナ・タ
祈るべきはこの祈りでしょうか。
聖霊なる神よ、私のうちにある無自覚の罪をあぶり出してください。
私のうちに隠してある罪を、神様のみ前に差し出す勇気を与えてください。
追記①
2016年の4月にもこのテーマで書いているのを見つけました。
追記②
結局は、この詩に行き着くのですが。
- 浦和神経サナトリウム
- 院長のエッセイ アーカイブから引用させていただきました。
逆説的な詩、ニューヨークリハビリ研究所
2021年11月3日 最終更新日時 :2022年9月25日 AK
ニューヨークリハビリテーション研究所の壁に下の詩が書かれているそうです。
もともとは病室の壁に書かれていたものを受付の壁に持ってきたらしいです。
作者不詳とされることが多いです。
(渡辺和子は、「幸せのありか PHP文庫」の中で、南北戦争 1860-1865 の時に負傷して入院した ロイ・カンパネーラさんが書いたと紹介しています。どうして確かめたのかは不明です。)
日野原重明は、「現代医学と宗教 岩波書店」の中で、同じ詩を紹介しています。作者は示していません。
成功するために力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。・・・・・・1
偉大なことができるように健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱を与えられた。・・・・・2
幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。・・・・・・・・・・・3
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、
神を求め続けるようにと弱さを授かった。・・・・・・・・・4
人生を楽しめるようにと、あらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと命を授かった。・・・・・・・5
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。・・・・・・・・・・・・・・6
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
言葉に出さなかった祈りはすべてかなえられた。・・・・・・7
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。・・・・・8