ごきげんよう! さわこです。

信じて祈れば必ず祈りは聞かれるのか?
祈りが聞かれないのは、信仰が不足しているからか?
順風満帆の人生を歩む人は信仰的であり、常に逆風の人生を歩む人は不信仰なのか?
祈りが望む通りに聞かれた人は正しくて、そうでない人は正しく生きていないからか?

祈りがなかなか答えられず、苦しむことが多い人は、このようなことを考えたりすることがあるのではないでしょうか?

バジレア・シュリンクは「神との語らい」という小さな本の中でこのように書いています。
「3祈りが答えられないとき」より


バジレア・シュリンクは「祈りが答えられないのには理由がある」という。

① 正しい人に属していない時
自分では気づかずに犯している罪があるとき。

赦さない心・・・・・・・・・・・マタイ6:15
怒りや争い・・・・・・・・・・・テモテ第一2:8
不和 ・・・・・・・・・・・・・マタイ5:24
肉欲と衝動 ・・・・・・・・・・ヨハネ第一2:15-17、
ガラテア5:24、ヤコブ4:3
占い、オカルト、まじない、呪術・・申命記18:10-13
不従順・・・・・・・・・・・・ ヨハネ9:31
互いに罪を告白しないこと・・・・ヤコブ5:16
けちや貪欲・・・・・・・・・・・ルカ6:38
※ 祈りの障害になるのは私たちの罪の性質なのか?否!違う。完全に罪がないのは神様だけ、人としてこの世界に降られたイエス・キリストのみ。
祈りの障害となるのは、私たちが罪の悔い改めも告白もせず、それから離れようとしないことである。

② 反抗的な心から出る祈り
※ 私たちの内に、神への隠れた反抗心があり、神と隣人に対して正しい関係がない時

③ 私たちの罪でない場合(責任でない場合とも言い換えられるのかも)
それは、私たちを訓練しようとされる神の計画によるもの。

「主を信じて待ち望め、祈り続けよ」との神からの呼びかけ
※ 待つことによって・・・
忍耐が強められる
謙遜にされて、清められ練られて行く
絶えず新たに信じることを学ぶ
みこころに適った祈りへと導かれる


長い間、祈りが聞かれないのは苦しいもの、なぜ聞かれないのかと疑問が湧いて来る。

この疑問が解決される方法がある。
それは、私たちの意志を神に明け渡すこと
「わたしの願いではなく、あなたのみこころのままになさってください」という態度で祈るならば、答えられない祈りはない。
ただ、いつ、どのように、主が祈りに答えてくださるかについては主の領域である。
自分で注文することではなく、主におゆだねすること。


祈りが聞かれない(答えられない)ときには、先ず①と②の理由が思い浮かびます。
しかし、③④の理由があって祈りへの答えが待たされるという場合があるのです。

聞かれない祈りの中で苦悩する人に①と②の理由をあげて、譴責や勧告をすることで苦悩が深められ、時には精神が病んでしまう場合もあります。
信仰が悩める人を更なる苦しみの淵に追い込むのです。
①と②の理由の場合もあるのでしょうが、それだけであると決めつけてはならないと思います。
③と④の理由という側面から考えるとき、希望と忍耐と信仰が養われるのではないでしょうか。