ごきげんよう!さわこです。
エルサレム神殿がバビロンによって完全に崩壊された時のユダヤの住民の痛みは、人類史のあらゆる時代に表面化する二つの問いを投げかけています。
「なぜ」と「いつまで」という問いかけです。
最初の問いかけは、神議論(悪と人の苦難に対する神の義)についてであり、その答えは詩篇73篇の中に見出されます。
そこでは聖所に入って、初めてなぜ正しい者が苦しみ、悪しき者が栄えるのか(詩篇43.2〜16)についての答えを、詩篇記者は見出します。
「ついに、わたしは神の聖所を訪れ彼らの行く末を見分けた」詩編73:17
「なぜ」という大きな問題を神学的にも地理的にも解決しています。
神は適切な時に、公正と義を回復され、人の苦難が神のあわれみと愛に対するより深い知識をもたらす事になるのです。
「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし、今、この目であなたを仰ぎ見ます」ヨブ記42.5
聖所のおける神の臨在により、パズルのピースが組まれ、ついに一つになるのです。
第二の問いかけ「いつまで」の答えは、詩篇75編にあります。
「わたしは必ず時を選び、公平な裁きを行う。」75:8
ここでは、神は正義をもたらし、「定まった時に」神の民の苦難を終わらせる審判官として描かれています。
神はすべての過ちを正されるのです。
聖所は救いの物語を語っています。
聖所は明らかに、最初から最後までキリストの犠牲と和解のは御業を指し示しています。
(2024.1安息日ガイド副読本86.87.88頁より)
詩編75:16・17
私の目に労苦と映ることの意味を知りたいと思い計り
遂にわたしは神の聖所を訪れ
彼らの行く末を見分けた。
マナラ・タ
人は理不尽さに対して「なぜ?」と言わずにはおれません。
「いつまでなのですか?」人の忍耐は神の忍耐よりもはるかに劣っています。