ごきげんよう!さわこです

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神を信じさえすれば、試練・誘惑・悩みは、

我が家族には起き得ないかのように考えていた事は

軽薄であったと次第に気づくようになりました。

 

試練・悩み・誘惑は、悪人・善人の区別なく

誰の人生にも起こる当たり前の状態なのです。

それを私の識別不足、選択の過ち等々、全て自分に原因がある。

非は全て私にあると思い込んでいました。

 

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イエス様を信じさえすれば、万事が解決する。

もし、解決しなければ、

私の為すべきことは、まだ何かが残っているにちがいないと、

目の前の目標を定めて、問題をぶったたく

モグラたたきゲームのようなことをしていました。

 

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しかし、私たちは、地上人生において、

艱難や誘惑に遭わないわけにはいかないのです。

ことに神に忠実に生きたいと願う者には、つきものかもしれません。

 

にもかかわらず、私は、

私の識別不足・選択の過ち等々、原因を自分に置いておりました。

しかも、その原因を自分の無意識の領域にまで広げて、

自虐的になり自己憐憫に落ち込んでいました。

 

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巷には、ヨブの友人たちのようなアドバイスに満ちていました。

 

「すべての人を自分より優れていると考えなさい。それが謙遜というものです」

「神様は、誰かを通してあなたを譴責して間違いを教えてくれるものです。」

そういった助言をまともに受けて、

気づいていない私のいけなかったところは何処?と、

自分の間違い探しに余念がありませんでした。

 

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しかも、それが悔い改めであるかのように勘違いしてしまっていました。

私は、聖句の部分的理解、一面的な理解によって、

神様を見失うことになっていたのです。

 

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つまりルカによる福音書15章

「放蕩息子の例え話の弟と兄」は、私の内に共存していたのです。

父親から離れて行く放蕩息子の弟。

父親の側にいながら、父の心から離れて行く兄。

 

どちらも、父なる神様を自分流に見ていたのです。

父なる神の愛の本質を誤解してしまっていたのです。

知らなかったのです。

 

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そして、私の行き着いたところは聖書通読でした。

その日に読んだところは、EGホワイトの著作集(証の書)で確認しました。

 

なんと、自分の感受性を軸に読んでいたことでしょう。

なんと、勧善懲悪的に受け止めていたことでしょう。

なんと、福音をご利益的に読んでいたことでしょう。

 

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さらに、律法は

「神の愛」であり「神の御品性」であることが見えてきたのです。

 

旧約聖書を「預言と律法の書」だと、イエス様はおっしゃっています。

旧約聖書の中に、イエスさまを見つけることができるようになりました。

ユダヤの祭りも、日ごと、年ごとの祭儀もイエス様そのものを表していることも見えてきました。

旧約聖書の中に、新約聖書の「イエス様のお言葉」の原型を見つけるようになりました。

使徒たちの書簡集も、旧約聖書の引用がたくさんあります。

新約聖書は、旧約聖書でできている。

旧約聖書の預言の成就が新約聖書。

この二つは一つであって切り離せない。

 

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マラナ・タ

私のような愚か者、不信の徒は、聖霊の導きを求めて祈り、

善き解説を得て読まなければ

誤解するところ、得手勝手な理解をしてしまうところ、

自分の体験と感性を基準に読んで感激したり、

気落ちしてしまうところさえ出てくるのです。

しかし、このような経験を通して

真理の知識が得られることもまた事実です。

過ぎて見れば感謝しか残りません。