ごきげんよう!さわこです
クリスマスローズが咲きました。
私の小さなお庭。
 
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神を信じさえすれば、試練・誘惑・悩みは、我が家族には起き得ないかのように考えていた事は軽薄であったと次第に気づくようになりました。
 
試練・悩み・誘惑は、悪人・善人の区別なく誰の人生にも起こる当たり前の状態なのです。
 
それを私の識別不足、選択の過ち等々、全て自分に原因がある。非は全て私にあると思い込んでいました。
 
しかし、イエス様を信じさえすれば、万事が解決する。
もし、解決しなければ、私の為すべきことは何が残っているだろうかと、目の前の目標を定めて、モグラたたきゲームのようなことをしていました。
 
しかし、私たちは、地上人生において、艱難や誘惑に遭わないわけにはいかないのです。
 
ことに神に忠実に生きたいと願う者には、つきものかもしれません。
 
にも関わらず、私の場合には、私の識別不足・選択して過ち等々、原因を自分に置いておりました。
しかも、その原因を自分の無意識の領域にまで広げて、自虐的になり自己憐憫に落ち込んでいました。
 
神様を見上げないで、神の戒めと律法に目を向けて、不従順であるゆえに起きる災難と悲劇を自分に重ねてしまっていました。
ヨブの友人たちのこのようなアドバイスは巷に満ちています。
その助言をまともに受けて、いつも、私のいけなかったところは何処?と、自分の間違い探しに余念がありませんでした。
しかも、それが悔い改めであるかのように勘違い。聖句の部分的理解によって、神様を見失うことになっていたのです。
 
放蕩息子の例え話の弟と兄は、私の内に共存していました。
 
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そして、私の行き着くところは聖書通読でした。
その日に読んだところは、EGホワイトの著作集(証の書)で確認しました。
 
なんと、自分の感受性を軸に読んでいたことでしょう。
なんと、勧善懲悪的に受け止めていたことでしょう。
なんと、福音をご利益的に読んでいたことでしょう。
 
さらに、律法は「神の愛」であり「神の御品性」であることが見えてきたのです。
ユダヤの祭りも、日ごと、年ごとの祭儀もイエス様そのものを表していることも見えてきました。
 
旧約聖書を「預言と律法の書」だと、イエス様はおっしゃっています。
 
旧約聖書の中に、イエスさまを見つけることができるようになりました。
旧約聖書の中に、新約聖書の「イエス様のお言葉」の原型を見つけるようになりました。
使徒たちの書簡集も、旧約聖書の引用がたくさんあります。
 
新約聖書は、旧約聖書でできている。
旧約聖書の預言の成就が新約聖書。
この二つは一つであって切り離せない。
 
私のような愚か者、不信の徒は、聖霊の導きを求めて祈り、善き解説を得て読まなければ、誤解するところ、得手勝手な理解をしてしまうところ、自分の体験と感性を基準に読んで感激したり、気落ちしてしまうところさえ出てくるのです。
 
昨日の3時半、上弦の月がきれい。
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マラナ・タ
聖書は部分読みでも満たされるけれども、全体を読まなくては。
ユダヤの祭儀の意味をつかまなくては。
そして、私は「聖所」に関心が湧いてきました。