ごきげんよう!さわこです

初桜を見ました。

 

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」
エフェソ1:17,18   パウロの祈りです。
 
心の目とは、知性mind、すなわち思考を指揮する心の部分を指しています。知性は心の一部なのです。
 
心(知性)と霊の働きは違いますが、聖書によると、心(知性)と霊は繋がっています。これを「心(知性)と霊の補い合いの法則」と呼んでいます。
 
(ジョイス・マイヤー「思考という名の戦場」思考における戦いに勝利するために)79頁より
 
なるほど!
心の目は知性、知性は思考を指揮する一部分。
しかし、心には、また良い感情・思い・思考も、悪い感情・思い・思考も内在しています。
 
つまり、心は善きものにも悪しきものにも影響されやすい知性なのです。
最善の善は、神にあります。
神にもいろいろありますが、私は父・御子・御霊の三位一体と称されるところの、創造と贖いの神である聖書の唯一の神を信じています。
 
そこで、宗教によって様々な呼び方をされる神様ですが、私はイエス・キリストが父と呼んでいる聖書の神様を指して「神」と呼んでいます。
 
「神」を、私の心を基準として理解するなら、誤解を伴います。
 
コリント第一2章11節下句には
「・・・神の霊以外に神のことを知る者はいません」と書いてあります。
 
11節の上句には「人の内にある霊」
12節には「世の霊」と書かれていますので、整理しますと、
「霊」には、神の霊(聖霊)、人の霊(世の霊)、サタンの霊(悪霊)と3種類あると言うことですね。
 
人の霊は、神にもサタンにも影響されやすいフリーの性質を持っていますから、人の直感が必ずしも神から来ている訳じゃないことを覚えていないと危険です⚠️
 
コリント第一2章8節から16節までは新共同訳には小見出し「神の霊による啓示」とついていますから分かりやすいです。
読んでみてください。
 
私がバプテスマを受けた時に、私を導くきっかけとなった文書伝道者のおばあちゃまがこう言われました。
「あなたは聖霊を受けましたから、聖書のことが今までよりも理解できるようになりましたから、分からない所があっても、御聖霊が教えてくださいますから、今はわからなくても大丈夫です」
 
確かにそうでした。イエス様の十字架に関する箇所が、ゴシック体となって、超太字となって、私の目に飛び込んで来るようになりました。
 
人の霊である私の霊に、御聖霊が強く影響を与えるようになったのです。
聖霊の導きを求めて祈りのうちに聖書を読み、考え、思索を巡らすならば、御聖霊は私の霊のうちにキリスト様を招き寄せてくださるのです。
キリスト様が内住してくださるのです。
 
梅もまだまだ咲き誇っています。
 
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水のバプテスマ・聖霊のバプテスマ。
このバプテスマに同時に与る人もいれば、時間差のある人もいます。
 
聖霊のバプテスマを受けることの意味を狭く考えるなら、牧師・伝道師・宣教師といった神職に就く人が受けると限定する人もいるかと思います。
 
しかし、私は「求めよ、そうすれば与えられる」と言われたイエス様のお言葉は、御聖霊様のことではないかと思います。
 
パウロが書いているように13節
「わたしたちが語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく霊に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです」
 
聖書の言葉を理解できる人ばかりではなく、神に関することを拒否する人もいます。
そんな時、がっかりしたり、もやもやしたりしますけど、
14節には
「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって判断できるからです」
 
ジョイス・マイヤーさんは、分かりやすく書いています。
以下引用
私たちがキリストを救い主として受け入れた瞬間に、聖霊が私たちの内に宿りました。聖霊は、神様の心を良く知る存在であると聖書は教えています。その聖霊が私たちの内側に住み、神様の知恵と啓示をダイレクトに授けてくれるのです。「その人の内に宿る霊だけが、その人の思いや考えを知る唯一の存在」であると同様に「神の霊である聖霊だけが、神様の思いや考えを知る唯一の存在」なのです。
 
神様の思いや考えを知る唯一の存在である聖霊が、私たちの内に宿っているわけですから、神様の知恵と啓示を私たちに示すことが、聖霊の使命の一つなのだと聖書は語っています。知恵と啓示を授かった私たちの霊が「心の目」を開かせ、知性で理解できるように働きかけます。そのプロセスを経て、「霊的なレベル」で与えられた知恵や知識を、私たちは「日常的なレベル」で理解できるようになるのです。以上。
 
蝋梅もまだまだきれいです。
 
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マラナ・タ
長くなりましたので、引用はここまでにしておきますが、ジョイスさんはエフェソ1:17,18とコリント第一2:6-16を実に分かりやすく解き明かしてくれています。